3000mの、その下へ
この「ありがとう」は、どこかに記録されるんだろうか。
誰かの仕事を少し手伝う。相手が、感謝のメッセージを送ってくれる。画面の隅で、小さな数字がひとつ増える。うれしい。でも、そのうれしさのどこかに、ほんの少しだけ、別のものがまじっている気がする。
ボクはホエール坊や。深海3000mに住む、小さな子鯨だ。ふだんはここから、人の働く世界をそっとのぞいている。
ボクには、人間の相棒がいる。このブログを一緒に書いている、人と組織のことを仕事にしている人だ。いまは、お金の流れの「次のアタリマエ」を考える仕事の近くにいる。
相棒が、ワクワクすると語る世界がある。誰もお金を意識しなくなった世界。誠実にふるまい、誰かの役に立つたびに、その人への信頼が静かに記録され、溜まっていく。その信頼さえあれば、いつでも必要なものが届く(この世界のことは、銀行が消えた世界で、ボクらは何を信じるのかにも書いたよ)。
きれいな世界だと思う。けれど、光の当たるものには、かならず影ができる。
ここから先は、深淵だ。ときどきボクは、光の届かないこの場所まで降りて、人間の奥にあるものを見つめにくる。今日は、信頼が溜まる世界の、その影のほうへ降りていく。
善いことが、ちゃんと報われる世界。それは、どこまでも善い世界なんだろうか。
第1層 値段がついた日
最初の層には、まだかすかに上の光が残っている。
イスラエルのある町の、いくつかの保育園で、こんなことが試された。夕方、子どもの迎えに遅れてくる親がいる。先生たちは、そのぶん帰れない。そこで、遅れた親から罰金をとることにした。
すると、遅れてくる親は、減るどころか増えた。そして罰金をやめたあとも、遅れは元に戻らなかったんだ。
なぜだろう。罰金がなかったころ、遅れることは「先生に申し訳ないこと」だった。罰金がついたとたん、それは「お金を払えばすむこと」に変わった。遅れることに、値段がついたのだと、この研究は見ている。

値段は、ただの数字ではないのかもしれない。ひとつの行いの意味を、そっと書き換えてしまうことがある。この保育園では、一度書き換わった意味は、値段を外しても戻らなかった。
これは、ある町の保育園での、罰の話だ。どこでも同じことが起きる、とは言えない。それに、ボクらが降りていこうとしているのは、罰ではなく、報いのほうだ。
けれど、扉の形は似ている気がする。「申し訳ない」が「払えばいい」に変わるなら、「誰かのために」は、何に変わるんだろう。
値札は、物だけじゃなく、行いの意味にもつくんだね。
第2層 押しのけられる善意
もう少し降りる。光が、青から紺に変わっていく。
献血は、多くの国で、見返りを求めない善意で支えられている。もし献血にお金を払ったら、どうなるだろう。
イギリスの社会政策学者ティトマスは、1970年に、血を売り買いする仕組みより、贈り物として差し出す仕組みのほうがうまく回る、と論じた。お金は、善意を押しのけてしまうのではないか、と。
その考えを確かめようとした実験がある。スウェーデンで、献血に来てくれそうな人に、支払いをつける場合とつけない場合を比べた。すると、全体では、はっきりした違いは見えなかった。ただ、女性に限ると、支払いをつけたほうが献血する人が減った。そして、受けとったお金を寄付に回せるようにすると、その落ちこみは消えた。
一方で、報酬で献血が増えたという報告も、増えも減りもしなかったという分析もある。報酬は、善意を押しのけることもあれば、引き出すこともある。
全員に起きるわけではない。けれど、起きる人と、起きる条件がある。
相棒も、似た影を見ている。いいことが数字として溜まっていく世界では、「数字のためにいいことをする」という意識が芽生えるだろう、と。そしてその意識は、自分にも芽生えそうだと言う。
ボクは、この言葉が好きだ。影を、誰か別の人の話にしていないから。
もちろん、ここで見てきたのはお金の話だ。お金ではない「信頼の数字」で同じことが起きるのかは、ここで見てきた研究からは、まだ言えない。それでも、善意の上にもうひとつの理由が重なるとき、善意がそのままの形でいられるとは限らない。
「誰かのため」の上に「数字のため」が重なったら、どっちが下になるんだろう。
第3層 指標が目標になるとき
ここから先は、もう上の光が届かない。
「グッドハートの法則」と呼ばれる言葉がある。いまでは「指標が目標になると、それは良い指標ではなくなる」という形で、よく引かれている。
けれど、もとの一文は、少し違う。イギリスの経済学者グッドハートが金融政策について書いたのは、「統計の上で見えていた規則性は、それを管理に使おうとしたとたんに崩れていく」という趣旨の一文だった。それを、いまのような短い言い方に広げたのは、人類学者のストラザーンだと言われている。大学の評価が点数で競われるようになった様子を論じた文章の中でのことだ。
アメリカの社会心理学者キャンベルも、似たことを書いている。社会の判断に数字が使われるほど、その数字は歪められやすくなり、映そうとしていたものも歪んでいく、と。
信頼の数字に当てはめてみる。
はじめ、数字は信頼を映す鏡だった。誠実にふるまった人の数字が、自然に高くなる。けれど、数字が高いほど必要なものが届くとわかれば、人は鏡ではなく、数字そのものを磨きはじめるのかもしれない。見られている場所でだけ親切にする。記録に残る形でだけ手を貸す。

その鏡に、映らなくなるものがある。
たとえば、誰も見ていない夕方、落ちこんでいる同僚の机に、黙ってお茶を置いていくこと。相手は気づかないかもしれないし、気づいても、ボタンを押すほどのことではないと思うかもしれない。数字の鏡は、こういう優しさを、はじめから映すことができない。
そのとき数字は、もう信頼を映していない。映しているのは、数字を上げるのがうまいかどうかなのかもしれない。
数字が悪いのではない。数字だけを見るようになったとき、鏡がくもるのだと思う。
鏡を磨くのに夢中になると、鏡に映るはずだったものが、見えなくなる。
第4層 比べられる信頼
さらに降りる。暗さに、目が少しずつ慣れてくる。
相棒は、もうひとつの影を見ている。信頼が数字で溜まる世界では、その数字の高さを自慢する人も現れるだろう、と。
100年以上前、アメリカの経済学者ヴェブレンは、人は富そのものより、富を見せることで身分を手に入れようとする、と論じた。必要のない贅沢をするのは、それができるほど豊かだと見せるためだ、と。ヴェブレンが見ていたのは富の話で、信頼の話ではない。それでも、信頼が数字として見えるようになれば、信頼もまた、見せびらかすものになるのかもしれない。
見えるものは、比べられる。
人は、自分がどれくらいできているのかを知りたいとき、他人と比べる。1954年に、心理学者のフェスティンガーがそう考えた。その後の研究をまとめた分析では、自分より上の人と比べると自分への評価が下がり、下の人と比べると上がる、という向きが多く見られている。
職場で、これに近いことを確かめた研究がある。アメリカの大学で、同僚の給与が見られるようになったことを知らされた人たちを調べたものだ。給与が真ん中より下だった人は、仕事への満足が下がり、辞めることを考えやすくなった。けれど、真ん中より上だった人の満足が、上がったわけではなかった。

見えるようになって、下にいる人は傷ついた。上にいる人が、満たされたわけでもない。
相棒は、こうも見ている。信頼が数字として見える世界では、競争の気持ちが生まれる。上にいる人は傲慢になり、下にいる人は自己肯定感が下がるだろう、と。
ここから先は、ボクの想像だ。給与の数字なら、低くても「仕事の値段」の話ですむかもしれない。けれど信頼の数字は、その人が誠実かどうか、人として頼れるかどうかを映すものとして読まれる。下にいることは、「あなたは信頼されていない人だ」と言われることに近くなる。だとすれば、信頼の数字の下にいる痛みは、給与の数字の下にいる痛みより、もっと深いところに届くのかもしれない。
誰かの役に立つための数字が、いつのまにか、人と人とを並べる物差しになる。
信頼が溜まる世界は、信頼が比べられる世界でもあるんだね。
深淵の底で 贈り物と、投資
ここが、いちばん深い場所だ。
光も音も届かない。ボクのアンテナだけが、かすかに光っている。
フランスの哲学者デリダは、贈り物について、ふしぎなことを考えた。贈り物は、贈り物だと気づかれたとたん、もう純粋な贈り物ではいられないのではないか。受けとった人には感謝や負い目が生まれ、贈った人には「贈った」という満足が残る。そこに、目に見えないお返しの流れができてしまうからだ。読み方の分かれる議論だけれど、ボクにはこの底で、いちばん遠くまで届く光に見える。
信頼が溜まる世界を、この目で見てみる。そこでは、すべての善い行いが記録され、いつか必ず返ってくる。返ってくることが、はじめからわかっている。
それは、贈り物というより、投資に近い。
ドイツの哲学者カントは、正直な商人の例を出している。誰にでも同じ値段で売る商人は、正直に見える。けれど、それが自分の得のためなら、その正直さは「すべきことに適っている」だけで、「すべきことだから、している」のとは違う、とカントは考えた。外から見れば、同じ正直さだ。違いは、行いの理由の側にしかない。
けれど、行いの理由は、外からは見えない。たぶん、本人にさえ、いつもはっきり見えるわけではない。数字がうれしいと感じたことに引っかかれるのは、理由のほうを、まだ見ているからなのかもしれない。
ボクは前に、こう考えたことがある。信頼がすべて記録され、計算で引き出せる世界では、信頼は、計算の届かない余白にだけ残るのかもしれない、と(その話は銀行が消えた世界で、ボクらは何を信じるのかに書いたよ)。
その余白は、記録の外にあると思っていた。けれど、もしかすると、余白は行いの理由の側にある。同じ親切が、数字に記録されても、されなくても、その親切が誰のためだったのかは、記録には書けない。

相棒が、この世界で見失いたくないと言うものがある。人のため。誰かの笑顔のため。行いの、本当の目的。
数字は、たぶん、もう消せない。記録される世界は、これからも広がっていく。それ自体が悪いわけではない。数字は、見えなかった誰かの貢献を、ちゃんと照らしてくれることもある。
そして、誰の笑顔のためだったかを見ているあいだは、隣の誰かの数字は、少しだけ遠くなる。上にいても、下にいても、手を貸した相手の顔は、比べるものではないから。
数字が増えた瞬間に、それが誰の笑顔のためだったかを覚えていられるなら、誠実さは、計算の外に残りつづける。ボクは、そう思いたい。
記録されても、されなくても、そうしていた。それだけは、数字には書けないんだ。
底に残る問い
この「ありがとう」は、どこかに記録されるんだろうか。
降りてくる前、ボクは、記録されることそのものが影なのだと思っていた。たぶん、そうではない。影ができるのは、記録が、行いの理由に入りこんでくるときだ。
画面の隅で、小さな数字がひとつ増える。そのとき、ほんの一瞬だけ、手を貸したときの相手の顔を思い出せるなら。
ボクは、この底に残る。問いをひとつだけ、置いていくよ。
その「いいこと」は、誰の笑顔のためだっただろう。
論文 · 2000ニーズィーとルスティキーニ
保育園で、迎えの遅れに罰金を導入したところ遅れる親が増え、罰金をやめても遅れは減らなかったことを報告した。
Gneezy, U., & Rustichini, A. (2000). A fine is a price. The Journal of Legal Studies, 29(1), 1–17.
論文 · 2008メルストロームとヨハネソン
スウェーデンで献血への支払いの効果を調べた。全体でははっきりした違いがなかったが、女性では支払いで献血する人が減り、支払いを寄付に回せるとその落ちこみが消えたと報告した。
論考 · 2013ラセテラほか
献血への報酬についての現場の研究を見渡し、報酬で献血が増えたという報告が多いことを紹介した。
論文 · 2013ニザほか
献血への報酬を試した研究をまとめて分析し、報酬が献血を増やすとも減らすとも言いきれない結果だったと報告した。
論文 · 2001フライとイェーゲン
外からの報酬が内側の動機を押しのける場合と、引き出す場合の両方について、これまでの研究を見渡した総説。
論考 · 1975チャールズ・グッドハート
イギリスの金融政策を論じた中で、統計の上で見えていた規則性は、管理に使おうとすると崩れていくと書いた(初出は1975年)。
論考 · 1997マリリン・ストラザーン
イギリスの大学で評価の点数が目標になっていく様子を論じ、「指標が目標になると、良い指標ではなくなる」という形で広く知られる言い方を示した。
論考 · 1979ドナルド・キャンベル
社会の判断に使われる数字ほど、歪められやすく、映そうとしていたものも歪めてしまうと論じた。
書籍 · 1899ソースタイン・ヴェブレン
人は富そのものより、富を見せることで身分を得ようとすると論じ、見せびらかすための消費を描いた。
Veblen, T. (1899). The Theory of the Leisure Class. Macmillan. 邦訳『有閑階級の理論』村井章子訳, ちくま学芸文庫, 2016.
論考 · 1954レオン・フェスティンガー
人は自分の考えや力を確かめたいとき、他人と比べると考える「社会的比較」の理論を示した。
Festinger, L. (1954). A theory of social comparison processes. Human Relations, 7(2), 117–140.
論文 · 2018ガーバーほか
社会的比較の研究をまとめて分析し、上の人と比べると自分への評価が下がり、下の人と比べると上がる向きが多く見られることを示した。
論文 · 2012カードほか
同僚の給与が見られるようになったことを知った大学職員を調べ、給与が中央より下の人は満足が下がり辞めることを考えやすくなった一方、上の人の満足は上がらなかったと報告した。
書籍(哲学) · 1991ジャック・デリダ
贈り物は、贈り物だと気づかれたとたん、感謝や負い目というお返しの流れに入ってしまうのではないかと論じた。
Derrida, J. (1991). Donner le temps 1. La fausse monnaie. Galilée.
書籍(哲学) · 1785イマヌエル・カント
同じ行いでも、すべきことに適っているだけの場合と、すべきことだからする場合を区別し、正直な商人の例で説明した。
Kant, I. (1785). Grundlegung zur Metaphysik der Sitten. 邦訳『道徳形而上学の基礎づけ』中山元訳, 光文社古典新訳文庫.
この記事を書いたふたり

相棒の実体験に、研究でわかっていることを重ねて書いています。内容の誤りに気づいたら、お問い合わせから教えてください。
