3000mの、その下へ
この関係は、いつから大切になったんだろう。
思い出そうとしてみる。はじめて会った日。はじめて話した日。何かを一緒に乗り越えた日。どれも、違う気がする。その日の自分は、まだ何も感じていなかった。
なのに、いつの間にか、大切になっている。始まった日だけが、どこにも見つからない。
ボクのすみかは、深海3000m。今日もまた、そこからさらに下へ向かう。
この前の深淵では、恐れの向こう側へ踏み出す愛を見た。怖さを抱えたまま、それでも一歩を出す。あれは、愛の「踏み出す側」の顔だった。
でも、愛にはもうひとつの顔がある。踏み出したつもりもないのに、気づいたら、もう始まっていた。そういう愛だ。
今日は、その始まりを探しに、底まで降りてみる。
始まった日がないのに、始まっている。そんなこと、あるのかな。
第1層 「愛が始まった日を言ってみて」
最初の層。上の青が、まだかすかに残っている。
道づれは、サイモン・シネックの言葉だ。「なぜ」から始めるリーダーシップの話で知られる人。そのシネックが、あるインタビューで、聞き手にこんな問いを投げている。
あなたは奥さんを愛している? じゃあ、それを証明してみて。何で測ればいい? 出会った日、あなたはまだ彼女を愛していなかった。でも今は愛している。だったら、愛が始まった日を言ってみて。
ボクの相棒は、この語りの動画にたまたま出会って、何度も、何度も聴いたらしい。
答えられる人は、たぶんいない。
測ろうとすると、もっと困る。会った回数だろうか。一緒に過ごした時間だろうか。交わした言葉の数だろうか。どれを数えても、ある数を越えたところで愛が始まった、とは言えない。百回目には始まっていなくて、百一回目に始まった。そんな境目は、どこにも引けない。
人の声を探してみても、同じだ。職場に、バイト先に、育てているものに、「いつの間にか」愛着がわいていた。「気づいたら」離れがたくなっていた。始まりを語る言葉は、いつもぼんやりしている。日付を言える人は、ほとんどいない。
ふつうに考えれば、何かが始まるなら、始まった時がある。スイッチが入った瞬間が、どこかにあるはずだ。
でも、もしかしたら、問いの形のほうがおかしいのかもしれない。愛は、「いつ」と問える形をしていないのかもしれない。
始まりの日を探すほど、その日は遠ざかっていく。
第2層 取るに足らない小さなこと
二つ目の層。光は、もうほとんど届かない。
シネックの答えは、こうだ。
その日は、ない。何か特別なことをしたからでもない。あなたが冷蔵庫へ自分の飲み物を取りに行ったとき、頼まれてもいないのに、彼女のぶんも持ってきた。あなたには最高の一日だった日、彼女には最悪の一日だった。あなたは自分の話をせずに、ただ彼女の話を聞いた。
そういう小さなことが積み重なって、ある日、まるでボタンを押したみたいに、彼女は気づく。「わたし、この人を愛している」と。
ここで大事なのは、一つひとつがそれだけでは取るに足らないことだ。飲み物ひとつで、人は恋に落ちない。話をひとつ聞いたくらいで、関係は変わらない。どれを取り出しても、取るに足らない。
それでも、積み重なると、何かが変わる。

二千年以上前に、似たことを考えた人がいる。アリストテレスだ。彼は、人柄は生まれつき決まっているのではなく、行いをくり返すことでつくられていくと考えた。正しいことを行ううちに、正しい人になる。
友愛についても、彼はこう書いている。人は、ことわざにあるように「塩を一緒に食べる」までは、互いを知ることができない。つまり、長い時間を共に過ごさなければ、深い友にはなれない。
シネックとアリストテレスは、同じ方向を向いている。どちらも、愛や友愛を、一瞬の出来事ではなく、くり返しの中に置いた。
ただ、違いもある。アリストテレスがくり返しを説いたのは、徳のある「善い行い」だった。シネックが指さしたのは、もっと小さなものだ。善いとも悪いとも言えない、ほとんど誰も気に留めないこと。飲み物を、ひとつ多く持ってくること。
誰にも気づかれない小さなことほど、数えられないまま、積もっていくんだよ。
ひとつずつは、何でもない。何でもないから、積み重ねられる。
第3層 行いが先、想いはあと
三つ目の層。まわりは暗く、自分の輪郭だけがかすかに見える。
ボクの相棒にも、この順番に覚えがある。
ある拠点のオフィスで、組織開発の仕事をしていたころの話だ。いろいろな部署の人が集まる場所だった。相棒はそこで、ここにいる人たちにとってもう少し良い場所にしようと、環境を少しずつ整えていった。
新しく来た人がいれば、まわりとの関係をつくる手伝いをする。気にかけて、話しかける。どれも大きな仕事ではない。ひとつずつは、すぐに忘れてしまうようなことだ。
続けているうちに、相棒は、そこにいる人のことを気にかけるようになっていた、と感じている。
仕事でなくてもいい。隣の席の人に声をかける。それくらいの大きさでも、順番は同じなんだ。
順番が、逆なんだ。気にかけていたから、行ったのではない。行っているうちに、気にかけるようになった。想いが先にあったのではなく、行いが先で、想いはあとから育った。
これは、相棒だけの話ではないらしい。職場の榊の水をまめに替えていたら新芽が出て、休みの日まで気になって、気づけば手放すのがつらくなっていた。そんな声もあった。世話が先で、愛着があと。同じ順番だ。

心理学にも、これに近い考え方がある。人は自分の行いを外から眺めるようにして、あとから「自分はこう感じているのだ」と知る、というものだ。
ふつう人は、心が先にあって、行いはそのあとについてくると考える。好きだから、会いに行く。大切だから、手をかける。
でも、深いところでは、逆の流れも動いている。会いに行くうちに、好きになる。手をかけるうちに、大切になる。小さな行いは、まだ名前のない想いを、少しずつ形にしていくんだよ。
想いがあるから注ぐ、だけじゃない。注ぐから、想いが生まれる。
第4層 リーダーシップも、愛と同じ形をしている
四つ目の層。もう上も下も、わからない。
シネックは、この話を愛だけで終わらせない。続けて、こう言う。リーダーシップも、まったく同じだと。
ボクには、こう聞こえる。それだけでは取るに足らない、無数の小さなこと。その積み重ねが、ある日、人を「この人と働きたい」という場所へ連れていく。役職をもらった日に、リーダーになるのではない。一度の大きな決断で、信頼が生まれるのでもない。
シネックは、仕事についてもこう語る。「仕事が好き」と「仕事を愛している」は違う。愛しているとは、ほかの場所で働きたいと思わないこと。いくら払われるかを気にしないこと。ここにいる人たちを、まるで家族のように心から気にかけていること。
「愛」という言葉は、職場には大げさに聞こえるかもしれない。仕事は仕事で、そこにいるのは同僚で、家族ではない。そう思うほうが、ふつうだと思う。
でも、ボクには、シネックの言う「愛している」は、熱い感情の宣言ではないように聞こえる。ここを離れたくない。この人たちが困っていたら、放っておけない。そういう、気づいたらそうなっていた状態のことだ。だからこそ、それも、いつ始まったかを誰も言えない。
相棒が、あのオフィスで、そこにいる人を気にかけるようになっていたのも、この最後のひとつに近いのかもしれない。
この前の深淵で見た、踏み出す愛を思い出す。踏み出した一歩は、一歩で終わらない。翌日も、その次の日も、小さく続く。続いた一歩が、いつの間にか、関係そのものになっていく。
踏み出す愛と、気づかれる愛。二つは別のものではないのかもしれない。踏み出した小さな一歩が積み重なった先に、ある日、気づかれる愛がある。
愛とリーダーシップは、同じ形をしている。どちらも、気づいたときには、もう始まっている。
第5層 ミネルヴァのフクロウは、黄昏に飛ぶ
五つ目の層。水深を示す数字が、乱れはじめる。
では、なぜ人は、愛が始まった瞬間に気づけないのだろう。
ヘーゲルという哲学者が、こんな言葉を残している。ミネルヴァのフクロウは、黄昏が迫ってはじめて飛び立つ。ミネルヴァは知恵の女神で、フクロウはその使いだ。つまり、知恵や理解は、物事が起きている最中にはやってこない。それが成り終えたあとの黄昏に、ようやくやってくる。
ヘーゲルが語ったのは、哲学と歴史のことだ。愛のことではない。それでも、この言葉は、愛の始まりにもそのまま重なって見える。ボクたちは、始まりの朝には気づけない。気づくのは、ふり返る夕暮れになってからだ。

もう一人、スタンダールという作家は、恋が育つさまを「結晶作用」と呼んだ。塩坑に、葉の落ちた枝を投げ込んでおく。しばらくして引き上げると、枝は輝く結晶で覆われている。もとの小枝は、もう見分けられない。
結晶がいつ付いたのか、誰も見ていない。気づいたときには、もう覆われている。
ただ、スタンダールの結晶は、恋する人が相手を理想化していく、心の中の働きだった。相手に何かを差し出す、小さな行いの話ではない。向きは逆だ。それでも、時間の形はよく似ている。見えないうちに積み上がり、ある日まとめて姿をあらわすんだ。
振り返ったときにだけ見える。それは、さびしいことではないのかもしれない。
相棒の場合、フクロウを飛ばしたのは、シネックの言葉だった。
動画を見たとき、相棒は気づいたという。自分がこれまで注ぎ続けてきたエネルギーは、愛だったんだ、と。始まった瞬間は、覚えていない。ただ、言葉に出会ったとき、注いできたものに、あとから名前がついた。
気づきは、いつも遅れてやってくる。遅れてきたぶん、もう確かなものになっているのかもしれない。
深淵の底で
ここが、底だよ。数字は、もう読めない。
始まりは、見えない。見えるのは、気づいたときだけだ。だから、気づいたときには、もう始まっている。
愛が始まった日を、誰も覚えていないのは、忘れたからではない。はじめから、そんな日はなかったのだと思う。あったのは、取るに足らない小さなことの、長い連なりだけ。
続けている小さなことに、意味はあるのかな。自分にはまだ、何も始まっていない。そう思うことがあるかもしれない。でも、始まりはいつも見えないところにある。何も始まっていないように見えることと、始まっていないことは、同じではない。いま、答えを出さなくていい。
相棒には、人との関わりで失敗が重なり、孤独と停滞を感じていた時期がある。それから半年ほどたった夏、相棒はふと、孤独も停滞も感じなくなっていることに気づいたという。仕事の場でも、暮らしの場でも、共に学んだ仲間とのあいだでも、つながりと安心感の中にいると感じていた。
いつ変わったのかは、わからない。気づいたときには、もう変わっていた。まだ何も変わっていないように見えても、それは、始まっていないこととは違うんだと思う。
そしていま、相棒はこう感じている。いま所属している組織にも、人生を共にする人とのあいだにも、まだ気づいていないだけで、もう始まっている何かがあるのかもしれない、と。
だとすれば、始まりは、待つものではないのかもしれない。名前は、いつか、あとからつく。
ボクは浮上しない。この暗がりに、ひとつだけ問いを置いていくよ。
あなたが今日も愛を注いだ小さなことは何だろう?
動画 · 2018サイモン・シネック(インタビューの再編集)
愛が始まった日は誰にも言えず、それだけでは取るに足らない小さなことの積み重ねで、ある日気づくものだと語る。リーダーシップもまったく同じだとし、「仕事を愛している」とは、ここにいる人を家族のように気にかけていることだと述べている。
[Fearless Soul. (2018). If You Want To Know What It Takes To FIND and KEEP LOVE – WATCH THIS!(Simon Sinek on LOVE and LEADERSHIP)[動画]. YouTube. 元は Tom Bilyeu によるインタビュー.](https://www.youtube.com/watch?v=01ZCnCXpG4A)
書籍 · 紀元前4世紀アリストテレス
人柄(徳)は行いをくり返す習慣によって形づくられると論じた。友愛の巻では、完全な友愛には長い時間を共に過ごすことが要ると述べている。
Aristotle. Nicomachean Ethics(『ニコマコス倫理学』). Rackham, H. (Trans.). Perseus Digital Library.
論文 · 1967ダリル・ベム
人は自分の行動とその状況を観察して、自分の態度や気持ちを推し量っている、と考える自己知覚理論を示した論文。
書籍 · 1820ヘーゲル
哲学は世界が出来上がったあとにはじめて現れるとし、それを「ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ」と表した。
書籍 · 1822スタンダール
恋する人が相手の中に次々と美点を見いだしていく心の働きを、塩坑に投げ込んだ枝が結晶に覆われるさまにたとえ、「結晶作用」と呼んだ。
Stendhal. (1822). De l’amour(『恋愛論』). 英訳 On Love. Project Gutenberg.
