3000mの、その下へ
ここには、もう何もない。
そう感じる日があるかもしれない。同じ道、同じ職場、同じ顔、同じニュース。世界がだんだん狭くなって、色が抜けていくように思える。
ボクはふだん、深海3000mに住んでいる。ここには、電波が届かない。海の水は電波をすぐに吸いこんでしまうから、どんな放送も、ボクのところまでは降りてこない。
でも、地上は違う。
いまあなたがいる部屋にも、何十もの放送が、同時に通り抜けている。ニュースも、音楽も、知らない国の言葉も。目にも見えず、耳にも聞こえず、壁を抜け、からだを抜けて、ずっと流れている。
ボクの相棒は、この「聞こえない放送で満ちた部屋」の中に、人間の姿を見た。
これは、物理学の主張じゃない。相棒が思索の中で見つけた、ひとつのたとえなんだ。たとえは、ものごとそのものではない。でも、たとえを通すと、ずっと見えていなかった形が見えることがある。
今日は、そのたとえを抱えて、深淵へ降りていく。
何もないのは、世界のほうなんだろうか。
第1層 同調 ― コイルとコンデンサが、1つの局を選ぶ
最初の層には、まだかすかに上の光が残っている。
まず、ラジオの仕組みをほどいておこう。
ラジオのアンテナには、そのあたりを飛んでいるすべての局の電波が届いている。アンテナは、局を選ばない。届いたものを、全部いっしょに受けてしまう。
そこで、選ぶ役目を担うのが、コイルとコンデンサをつないだ小さな回路だ。
コイルは、電線をぐるぐる巻いたもの。コンデンサは、2枚の金属板を向かい合わせたもの。この2つをつなぐと、電気が両者のあいだを行ったり来たりする。一度押されると、ブランコのように、決まったリズムで揺れつづける。
ブランコには、それぞれ「いちばん揺れやすいリズム」がある。そのリズムで押されたときだけ、小さな力でも大きく揺れる。これを共振と呼ぶ。
揺れるか、揺れないか。それを決めているのは、押す側ではなく、揺れる側なんだよ。
コイルとコンデンサの回路も同じだ。揺れやすい周波数はひとつだけで、コイルの巻き方で決まる性質(L)とコンデンサの容量(C)で決まる。式で書くと f = 1/(2π√LC)、つまり「LとCが大きいほど、揺れやすい周波数は低くなる」ということだ。
昔ながらのラジオのダイヤルを回すと、中でコンデンサの金属板の重なり方が変わり、容量が変わる。すると回路の揺れやすい周波数がずれていく。アンテナに届いているたくさんの電波のうち、その周波数の電波だけが回路を大きく揺らし、音に変えられて、スピーカーから流れ出る。
ほかの局は、回路をほとんど揺らさない。だから、鳴らない。

ボクは、この「鳴らない」が、いちばん大事なところだと思うんだ。
相棒は、ここに人の意識の形を見ている。
コンデンサの容量を変えることは、何を意識するかを変えることにあたるのではないか。何を意識するかが変われば、同じ場所にいても、受け取るものが変わる。人間の仕組みと、ラジオの仕組みは、同じ形をしているのではないか。
ダイヤルを回すとき、変わっているのは、部屋の中の電波じゃないんだね。
第2層 聞こえない局も、そこにある
少し降りる。光が、青から藍に変わる。
ラジオの局を変えたとき、さっきまで聞いていた局は、どうなっているだろう。
消えてはいない。放送局は、いまも同じ電波を送りつづけている。アンテナにも、いまも届いている。ただ、回路がそのリズムで揺れていないから、鳴っていないだけだ。

人にも、よく似たことが起きる。
1953年、イギリスの研究者チェリーは、左右の耳に別々の話を同時に聞かせる実験をした。片方の話を声に出して追いかけてもらうと、人はその話についていける。けれど、もう片方の耳に流れていた話の中身は、ほとんど覚えていなかった。にぎやかな場所で、自分の話し相手の声だけが聞こえる。いわゆる「カクテルパーティー効果」の出発点になった実験だ。
1999年には、シモンズとチャブリスが、バスケットボールのパスを数えてもらう映像の途中に、ゴリラの着ぐるみの人を歩かせた。画面の真ん中を横切っているのに、見ていた人の半数近くが、ゴリラに気づかなかった。
ボクは、ここで少し息を止めた。
ゴリラは、映っていた。もう片方の耳の話も、届いていた。
見えなかったのではない。合わせていなかったのだ。
これが、相棒のたとえのいちばん深いところにある見方だ。
世界はいつも、すべての放送で満ちている。意識は、そこに何かを新しく作り出しているのではない。満ちているもののうち、どれに合わせるかを、選んでいるだけなのかもしれない。
「意識を変えれば、世界が変わる」。そう聞くと、強く願えば世界の側が動いてくれるような話に聞こえるかもしれない。相棒のラジオでは、世界は一つも動かない。動くのは、ダイヤルだけだ。
ボクは以前、物理学の実験をたどりながら「見ることが世界を現すのではないか」と考えたことがある(この世界は仮想現実か)。今日の見方は、それとは少し向きが違う。ここでは、見ることは何も作らない。もう在るものの中から、一つを鳴らすだけだ。
聞こえなくなった局も、いまもどこかで鳴りつづけている。
第3層 通す、絞る、選ぶ ― 先人たちのラジオ
藍が、黒に近づいていく。
脳を、何かを「受けて通すもの」と見たのは、相棒が初めてではない。
19世紀の終わり、アメリカの心理学者ウィリアム・ジェイムズは、講演『人間の不死』でこんな考えを示した。脳は意識を生み出す器官ではなく、もっと大きなところにある意識を通す器官なのかもしれない。
20世紀の半ば、作家オルダス・ハクスリーは『知覚の扉』の中で、哲学者ベルクソンらの考えを手がかりに、脳と神経を「減量バルブ」にたとえた。世界にはもともと、受けきれないほどのものが流れこんでいる。脳はそれを生き延びるのに役立つ、ほんのわずかな量にまで絞っている、という見方だ。
相棒のラジオと、どこが同じだろう。
どちらも、脳の外に、脳よりずっと大きなものが在る、と見ている。人はそのごく一部しか受け取っていない、と見ている。そこは深く重なる。
では、どこが違うのか。
ジェイムズの問いは「生み出しているのか、通しているのか」だった。ハクスリーの関心は「どれだけ絞られているか」にあった。相棒の問いは、そのどちらとも少し違う。どれだけではなく、どこに。量ではなく、合わせる場所の話をしている。
ボクは、この小さな違いが、思っているよりずっと大きいと思うんだ。

絞りを緩めれば、もっとたくさん流れこむかもしれない。けれど、ダイヤルの位置が変わらなければ、鳴る局は同じままだ。
東の思想には、向きが逆の見方もある。仏教の唯識は、心の奥に、これまでの行いや経験の名残が「種子」として蓄えられ、それが縁にふれて芽を出したものを、人は世界として見ている、と考えた。放送は外を飛んでいるのではなく、心の内側に眠っている。
外か、内か。相棒のラジオと唯識は、そこで分かれる。それでも「すでに在るものが、条件がそろったところでだけ現れる」という一点では、遠く響き合っているように見える。
通す。絞る。選ぶ。同じ受信機でも、見ているところが少しずつ違うんだ。
第4層 くっきり鳴るほど、世界は細くなる
光は、もうほとんど届かない。
よいラジオとは、どんなラジオだろう。
ひとつの答えは、「隣の局がまじらないラジオ」だ。回路の揺れやすさの鋭さを、技術の世界ではQという数で表す。Qが高いほど、ねらった周波数のまわりだけが大きく揺れ、ずれた局はほとんど揺らさない。ねらった局だけが、くっきりと浮かび上がる。そのかわり、隣の局は、ほとんど聞こえなくなる。
Qの低い、ぼんやりした受信機はどうだろう。ねらった局に、隣の局の声がまじる。けれどそのぶん、まわりの局が、かすかに重なって聞こえてくる。

人の集中も、これに似ているのかもしれない。
ひとつのことに深く合わせると、その局は驚くほど鮮やかに鳴る。仕事の課題、目の前の数字、頭から離れない心配ごと。けれど、そのくっきりした音の外側で、ほかのたくさんの局が、まったく鳴らなくなっている。
ボクは、集中そのものが悪いとは思わない。鋭く合わせる力がなければ、何ひとつはっきりとは聞き取れないから。ただ、鋭さには、代償がある。くっきり聞こえることと、世界が細くなることは、同じことの両面なのかもしれない。
ここには、もう何もない。そう感じるとき、世界から局が消えたのではなく、ひとつの局に鋭く合わせつづけたまま、ダイヤルが止まっているのかもしれない。
それは、あなたがすり減ったからではないのかもしれない。ひとつの局に、長く、まじめに合わせてきたからなのかもしれない。
くっきり聞こえるほど、ほかの音は遠くなる。
第5層 コイルは、すぐには巻き直せない
ここから先は、深さを測れない。
ラジオには、ダイヤルで回せないものがある。コイルだ。
ダイヤルが動かすのはコンデンサだけで、回せる範囲には限りがある。その範囲がどのあたりに来るかは、コイルが決めている。いくつもの周波数の帯(帯域)を聞けるラジオは、帯域を切り替えるとき、中のコイルを取り替えているんだよ。中波(AM)のための回路では、どれだけダイヤルを回しても、FMの局までは届かない。
相棒は、人のコイルを「身体・経験・言葉」と見ている。
どんな体で生まれたか。何を見て、何をくぐってきたか。どんな言葉を知っているか。それらは、明日すぐには変えられない。けれど、それが、合わせられる局の幅そのものを決めている。
知らない言葉で流れている放送には、どれだけダイヤルを回しても、合わせられない。悲しみを一度もくぐったことのない人には、ある種の歌が、ただの音にしか聞こえないこともある。
それでも、「すぐには」変えられないということは、少しずつなら変わるということでもあるのかもしれない。ボクはそう思う。新しい言葉を一つ知る。初めての場所に一度立つ。誰かの痛みを一度、そばで見る。そのたびに、コイルはひと巻きずつ、巻き足されていく。昨日まで鳴らなかった局が、ある日ふと、鳴りはじめる。

ここで、たとえが少し壊れるところも見ておきたい。
ラジオは、届いたものをそのまま音にする。でも人は、どうやらそうではない。哲学者カントは、人は世界をそのまま受け取るのではなく、時間や空間といった、自分の側にもともとある枠を通して組み立てている、と考えた。いまの認知科学にも、脳は届いたものを待つより先に「次に何が来るか」を予測し、その予測と届いたもののずれを手がかりに世界を描いている、という見方がある。
人は受信機であると同時に、受けたものから番組を組み立てる、編集者でもあるのかもしれない。
それでも、ボクには、相棒のたとえが消えたようには見えない。どれほど上手に組み立てる人でも、材料の一部は、合わせた局から届いているはずだから。
ダイヤルの届く範囲は、コイルが決めている。コイルは、生きてきた時間が巻いている。
深淵の底で
ここが、いちばん深い場所だ。
光も音も届かない。ボクのアンテナだけが、かすかに光っている。
この底から、もう一度、地上の部屋を思い浮かべてみる。
部屋の中には、いまも、すべての放送が流れている。誰かの笑い声も、遠い国の祈りも、まだ一度も聞いたことのない音楽も。それらは、あなたが聞いていてもいなくても、ずっとそこにある。
相棒のラジオで見るなら、世界は、増えもしないし、減りもしない。
変わるのは、ダイヤルの位置だけだ。
相棒の「円環螺旋」という見立てでも、世界の形はすでに在り、動いているのは意識のほうだった。動くとは、世界を作り変えることではなく、合わせる場所を変えることなのかもしれない。
世界は、最初から、全部そこにあったのかもしれない。
底に残る問い
ここには、もう何もない。
降りてくる前、そう思っていたかもしれない。それは、半分だけ本当なのだと思う。いま鳴っている局には、たしかに、もう新しい音がないのかもしれない。けれど、部屋の中の電波は、一つも減っていない。
ボクは、この底に残る。問いをひとつだけ、置いていくよ。
いま、あなたのダイヤルは、どの局に合っているのだろう。
書籍 · 2015ホロウィッツとヒル
電子回路の定番の教科書。コイルとコンデンサの共振回路が、特定の周波数でだけ大きく応答し、その鋭さ(Q)が選択度を決めることを解説している。
Horowitz, P., & Hill, W. (2015). The Art of Electronics (3rd ed.). Cambridge University Press.
論文 · 1953チェリー
左右の耳に別々の話を聞かせ、片方を追いかけてもらう実験。追いかけていない側の話の中身は、ほとんど覚えられていなかった。
論文 · 1999シモンズとチャブリス
パスを数える課題の映像の途中にゴリラの着ぐるみの人を通らせると、見ていた人の半数近くが気づかなかった。注意を向けていないものは、目の前にあっても見えにくいことを示した。
書籍(講演) · 1898ウィリアム・ジェイムズ
脳は意識を生み出すのではなく、より大きな意識を通す器官なのかもしれない、という「伝達」の見方を論じた講演。
書籍 · 1954オルダス・ハクスリー
ベルクソンらの考えを手がかりに、脳と神経を、世界から流れこむものを生き延びるのに役立つ量まで絞る「減量バルブ」にたとえた。
Huxley, A. (1954). The Doors of Perception. Chatto & Windus. 邦訳に河村錠一郎訳『知覚の扉』平凡社ライブラリー.
解説記事サニ(スタンフォード哲学百科事典)
仏教の唯識(瑜伽行派)の解説。心の奥(阿頼耶識)に蓄えられた種子が条件にふれて現れ、それが世界として経験される、と考えられている。
解説記事ロルフ(スタンフォード哲学百科事典)
カントの哲学の解説。人は世界をそのまま受け取るのではなく、自分の側の直観と概念の形式を通して経験を組み立てている、と論じた。
Rohlf, M. Immanuel Kant. Stanford Encyclopedia of Philosophy.
書籍 · 2016アンディ・クラーク
脳は届いた刺激を待つのではなく、次に来るものを予測し、予測とのずれを手がかりに世界を描いている、という予測処理の見方をまとめた本。
この記事を書いたふたり

相棒の実体験に、研究でわかっていることを重ねて書いています。内容の誤りに気づいたら、お問い合わせから教えてください。
