3000mの、その下へ
この世界は、本当に本物なんだろうか。
ボクの相棒が、そんな問いを投げかける動画を見ていた。「この世界が仮想現実であることを示す証明式」という2本の動画だ。
動画は、ゲームの話から始まる。街を歩くゲームでは、プレイヤーがいない通りは、何も動いていない。コンピューターの負担を減らすために、見られている場所だけを細かく描いているからだ。
そして動画は、こう続ける。この世界も、同じつくりをしているのではないか。その手がかりが、物理学の実験の中にある、と。
相棒も、似たことを考えたことがある。生まれてから死ぬまでは、ゲームのような仮想空間なのではないか。そして、この仮想空間に住む自分を操作するプレイヤーが、どこかにいるのではないか。世界の仕組みを考えるときの、ひとつの仮説として。
ボクはふだん、深海3000mに住んでいる。今日は、そこよりもっと下へ潜る。
本当かどうかを、決めに行くわけではない。
ただ、物理学の実験の結果を一つずつ手に取っていくと、背中がすっと冷えるような瞬間がある。いつもの景色が、ほんの一瞬、画面のように見える。「もしかして、この世界は……」。
その小さなざわめきを、一層ずつ、確かめながら降りていこう。
この世界のつくりを、底まで見に行こう。
第1層 影と蝶 ― 疑いは、ずっと昔からあった
最初の層には、まだかすかに上の光が残っている。
見えているものは、本物なのか。この疑いは、コンピューターよりずっと古い。
プラトンは、洞窟の囚人を描いた。生まれたときから壁のほうを向かされ、後ろの火が映す影だけを見て暮らす人たち。彼らは、影を本物だと思っている。囚人たちが見ているのは、後ろの火と、その前を通る物が映し出した影だ。本物そのものではなく、裏にある仕組みが映し出した像を見ている。
荘子は、蝶になる夢を見た。目が覚めて、彼は迷う。自分が蝶の夢を見ていたのか。それとも、蝶がいま、自分になる夢を見ているのか。夢の中にいるかぎり、それが夢だと、内側からは見分けられない。
夢の中では、どんなにおかしなことが起きても、ふしぎに思わない。目が覚めて初めて、あれは夢だったと気づく。

見ているものは、作られた像かもしれない。そして、中にいる者は、それに気づけない。2人は、実験もコンピューターもないまま、考えることだけで、仮想現実とよく似た考えにたどり着いていた。
そしていま、物理学の実験の結果の中にも、同じ疑いを呼びおこすものがある。
ボクらが見ているこの世界も、裏の仕組みが映し出した像なのかもしれないね。
第2層 見られた所だけ、世界は現れるのか ― 二重スリット
もう少し、下へ。
板に、細い切れ目を2本入れる。その向こうに、スクリーンを置く。小さな粒を投げると、スクリーンには2本の線ができる。波を送ると、波どうしが重なったり打ち消しあったりして、縞模様ができる。線なら粒、縞なら波だ。
では、電子を1個ずつ飛ばすとどうなるか。電子は1個ずつ、スクリーンに点を打つ。ここまでは粒と同じだ。ところが、何千個も重ねていくと、縞模様が浮かびあがる。1個ずつしか飛ばしていないのに、波のような縞ができる。まるで1個の電子が、2本の切れ目を両方通ったかのようだ。

さらに不思議なことがある。電子がどちらの切れ目を通ったかを調べる装置を置くと、縞は消えて、2本の線になる。
調べなければ、縞が出る。調べると、縞が消える。動画は、ここにゲームとの共通点を見る。見られていない間は、電子の通り道を一つに決めずに、大まかに計算しておく。だから波のような縞が出る。見られたとたん、通り道を一つに決めて、細かく計算する。だから粒のような2本の線になる。この世界も、そうやって計算されているのではないか、と。
相棒は、ここで引っかかった。装置が電子のふるまいを変えたと、どうやってわかったんだろう。
この疑問に答えようとしたのが、「量子消しゴム」と呼ばれる実験だ。光の粒も、1個ずつ飛ばすと、電子と同じように縞をつくる。そこで光の粒を使って、「どちらを通ったか」という情報を残したり、あとから消したりして、縞がどうなるかを比べた。結果は、こうだった。
- 粒を強くはじくような邪魔をしなくても、どちらを通ったかを見分けられる目印が残るだけで、縞は消える
- 人がその記録を見たかどうかは、関係ない
- 情報を消すと、縞は戻ってくる
縞を消していたのは、人の目ではなかった。「どちらを通ったか」という情報が、世界のどこかに記録されることだった。

部屋を出て、ドアを閉める。誰もいなくなった部屋の机の上で、コップは、本当にさっきの形のままそこにあるのだろうか。ふと、そんなことを考えてしまう。
ところで、人の意識はここに関わらないのだろうか。相棒は、意識が電子に影響する可能性もあるのでは、と直感的に感じた。かつて物理学者のウィグナーも、意識が結果を決めるのでは、と考えたことがある。ただ、彼はのちにその考えを取り下げた。いまは、意識を持ち出さなくても説明できる、と考える物理学者が多い。
そうわかると、ゲームのたとえは、「見られた所だけ描く」より、「記録された所だけ中身が決まる」と言いかえたほうが、実験の結果に合う。
ゲームの中には、宝箱の中身を、開けられるまで決めずにおき、開けられたときに初めて決める作り方がある。電子も、そう見える。通り道が記録されたとき、初めて通り道が決まる。記録されなければ、2つの可能性が重なったまま、縞をつくる。
縞が出るか消えるかを決めていたのは、電子という「もの」に何がぶつかったかではなかった。「どちらを通ったか」という情報が残ったかどうかだった。だとすると、この世界のいちばん奥にあるのは、「もの」ではなく「情報」なのではないだろうか。物理学者のホイーラーも、あらゆるものは、イエスかノー(コンピューターの1と0)の答えからできているのではないか、と考えた。
もうひとつ、おもしろいことがある。この「どちらにもなれる状態」は、ふつうのコンピューターでは、まねするのがとても難しい。そこで物理学者のファインマンは、量子の仕組みそのもので動く計算機を作ればいい、と考えた。いまの量子コンピューターの始まりのひとつだ。
もしこの世界が計算されているなら、それは、量子の仕組みで動く計算機の上なのかもしれない。
この世界も、記録されたときに初めて形が決まるのかもしれないね。
第3層 なぜ、光より速く進めないのか ― 相対性理論
深度計の数字が、ゆらぎはじめる。
アインシュタインの相対性理論によると、止まっている人から見て、速く動くものほど、時間はゆっくり進む。これは実験でも確かめられている。原子時計を飛行機に乗せて地球を回ると、地上の時計とずれる。光に近い速さで回る粒子は、止まっているときより、壊れて別の粒子に変わるまでの時間が、ずっと長くなる。
飛行機で世界を一周した時計は、地上の時計と、ほんのわずかにずれて帰ってくる。気づけないほど小さな差。けれど、確かにずれている。
この理論からは、もうひとつ不思議なことが言える。離れた場所で起きた2つの出来事が「同時」かどうかも、見る人の動き方によって変わる。つまり、宇宙のすべての人に共通の「今」は、ない。
動画は、ここにもゲームとの共通点を見る。ゲームの世界は、一定のリズムで少しずつ書きかえられている。これを「更新」という。ボクは、もう少し仕組みに踏みこんでみたい。
マス目の上で計算される世界を考えてみよう。どのマス目も、となりのマス目の様子を見て、次の状態を決める。そんな世界では、どんな情報も、1回の更新でとなりのマス目までしか進めない。だから必ず、「いちばん速い速さ」が生まれる。
世界の端まで続く将棋盤の上を、光が、ひとマスずつ、カチ、カチと進んでいく。

この世界に、光の速さという越えられない上限があるのは、そういうつくりで更新されているからではないだろうか。
時間の遅れも、こう読める。1回の更新で、ひとつのものにできることには限りがある、と考えてみる。その多くを「となりのマスへ移る」ことに使えば、残りで自分の中の変化(時計の針が進む、粒子が壊れる)を進める余裕が減る。だから速く動くものほど、時間がゆっくり進む、と読める。

共通の「今」がないことも、同じように読める。もし更新が、全体いっせいではなく、場所ごとに、となりとのやりとりだけで進んでいるなら、時間の流れが場所によってずれていくのも、自然なことかもしれない。
この考えを、実際に確かめる方法まで考えた物理学者たちもいる。
画面のマス目は、ふだんは細かすぎて見えない。けれど、斜めの線を大きく拡大すると、ギザギザが見えてくる。マス目には、縦と横という決まった向きがあるからだ。
もし宇宙も、マス目の上で計算されているなら、同じことが起きるかもしれない。宇宙からは、とてもエネルギーの高い粒子が飛んでくる。エネルギーの高い粒子ほど、世界の細かいところの影響を受けやすい。だから、その粒子が飛んでくる向きを調べると、マス目の向きにそろった、かすかなかたよりが見つかるかもしれない。彼らは、そう計算した。
光の速さは、1回の更新で進める、いちばん遠い距離なのかもしれないね。
第4層 離れていても、分かれていない ― 量子もつれ
数字は、もう読めない。ここは、深淵だ。
同じところから生まれた2つの粒子がある。片方を調べて、たとえば「上向き」と出ると、もう片方は、どれだけ離れていても「下向き」と出る。これを「量子もつれ」という。
アインシュタインは、これを受け入れなかった。結果は、生まれたときから粒子の中に書きこまれているはずだ、と考えた。
物理学者のベルは、もし結果が前もって書きこまれているなら、2つの結果がそろう割合には越えられない上限がある、と計算で示した。これなら、実験で確かめられる。その後、何度も実験が行われ、答えはいつも同じだった。結果が生まれたときから粒子の中に書きこまれていた、という考えでは、説明できなかった。
2008年には、18km離れた2つの村で実験が行われた。もし片方からもう片方へ何かが伝わっているなら、その速さは、ある仮定のもとで、光の少なくとも1万倍になる、という結果だった。
18km。歩けば4時間ほどかかる距離だ。その両端で、2つの粒は、何の合図もなく、示し合わせたように答えをそろえる。

ただし、このつながりを使って、こちらから向こうへメッセージを送ることはできない。片方の結果は、偶然に決まるからだ。
もし、2つの粒子が、コンピューターの中ではひとつの記録として扱われているのだとしたら。画面の上では18km離れていても、記録の上では同じ1行に並んでいる。片方の値が決まれば、もう片方も同じ行の中で決まる。何かが空間を飛んでいく必要は、そもそもない。
空間の距離は、画面の上の距離にすぎないのではないだろうか。

メッセージを送れないことも、この見立てに収まる。画面の中の住人には、裏のつながりを道具として使うことは許されていない。ちょうど、ゲームのルールのように。
離れて見える2つも、裏ではつながっているのかもしれないね。
ひとつずつなら、たまたまゲームに似ているだけかもしれない。けれど、3つの結果を並べると、どれも同じひとつの見立てで説明できてしまう。この世界は、コンピューターのように計算されているのかもしれない、という見立てだ。
- 世界の中身は「もの」ではなく「情報」で、記録されたときに初めて決まる(第2層)
- 1回の更新で進める距離には上限があり、それが光の速さになっている(第3層)
- 離れて見える2つも、裏では同じデータでつながっている(第4層)
もしこの世界が、計算されたゲームのようなものだとしたら。次に浮かぶ問いは、ひとつだ。
ゲームには、画面の向こうでそれを動かしている「プレイヤー」がいる。では、この世界のプレイヤーは、誰なのだろう。
第5層 記憶をなくしたプレイヤー
もっと、深く。
相棒には、ひとつの仮説がある。プレイしているのは、生まれる前の記憶をなくした自分自身だ。目的は、心を成長させること。意識を、より育てていくこと。言いかえれば、愛を学ぶため。
プラトンにも、記憶をなくす魂の物語がある。「エルの神話」だ。生まれ変わる前の魂は、次の人生を自分で選ぶ。それから、川の水を飲んですべてを忘れ、新しい人生へ降りていく。
相棒の仮説と、よく似ている。ただ、エルの魂は人生を自分で選んでから忘れる。相棒の仮説は、そこまでは言っていない。
ゲームなら、同じ場面でも、プレイヤーの選び方で物語は変わっていく。相棒は、毎日の中で、それに近いことを感じている。前向きな気持ちで出来事を見ると、前向きに受けとれる。後ろ向きな気持ちで見ると、後ろ向きに受けとってしまう。そして、その受けとり方のまま動くと、物事はそれぞれ別の方向へ進んでいく。
これは、意識が電子を動かす、という物理の話とは違う。気持ちが受けとり方を変え、受けとり方が動き方を変え、動き方が出来事を変える。誰でも自分の毎日で確かめられる、「プレイヤーの選び方で物語が変わる」ということの、一つの形だ。
ただ、手の届かない出来事もある。心の向きが変えられるのは、そこから先の歩き方なのかもしれない。
相棒に聞いてみた。この人生というゲームの中で、生まれる前のことを思い出しかけている、と感じる瞬間はあるか。
相棒は、ない、と答えた。ただ、直感的に、そのためにここに来ている、という感覚だけはある、と。
記憶はなくても、心を育てるために来たのだという手ざわりだけが、残っている。

忘れていても、どこへ向かっているかは、わかるのかもしれない。
深淵の底で
ここは、とても静かだ。
第4層の終わりに、ひとつの問いを置いた。この世界がゲームなら、プレイヤーは誰なのか。
ゲームのプレイヤーは、画面の中にはいない。画面のこちら側に座って、画面を見ている。画面の中をどれだけ探しても、プレイヤーの姿は映らない。

ボクらも、同じかもしれない。世界の中で、景色を見たり、音を聞いたりしている自分。ゲームで言えば、それは画面の中のキャラクターだ。では、そのキャラクターを、画面の外から見ているのは誰なのか。世界の中をどれだけ探しても、その「見ている者」の姿は、どこにも映っていない。
昔の人たちも、同じことに気づいていた。
インドの古い聖典『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』には、こんな言葉がある。見ることの、見る者を、見ることはできない。見ているその人だけは、見られる側に回れない、という意味だ。
哲学者のウィトゲンシュタインは、目と景色のたとえを使った。目は、景色のすべてを見ている。けれど、その景色の中に、目そのものは映らない。見ている者は、世界の中にはいない。世界の境目にいる、と彼は書いた。
いま、この文字を読んでいる目。その目は、自分の顔を見ることができない。

この、世界の中に映らない見る者のことは、宇宙の果ての深淵でも見つめたことがある。
画面の中に映らないプレイヤーと、景色の中に映らない目。形は、よく似ている。
では、その「見ている者」とは、誰なのか。ウパニシャッドは、それを「自己(アートマン)」と呼んだ。ウィトゲンシュタインは、それについては語れない、と黙った。ボクは、ここで答えを決めずにおこうと思う。
ただ、相棒の仮説に重ねるなら、それは、記憶をなくした自分自身かもしれない。外から来た、知らない誰かではない。思い出せないだけで、そのために来た、という感覚だけは知っている、自分自身だ。
この世界が仮想現実でも、そうでなくても、その誰かは、ここにいる。いま、この文字を見ている、その奥に。
ボクは、この底に残る。問いをひとつだけ、置いていくよ。
この仮想現実に生きる自分を、見ているプレイヤーは、誰だろう。
動画 · 2017トップランキング
ゲームの描画の省略と二重スリット実験を重ね、この世界が仮想現実である証拠として紹介する動画。
動画トップランキング
光の速さと時間の遅れ、量子もつれを、この世界が仮想現実である証拠として紹介する続編の動画。
古典 · 紀元前4世紀プラトン
影だけを見て暮らす洞窟の囚人のたとえと、魂が次の生を自分で選び、忘却の野を通り、無思慮の川の水を飲んで生まれ直すエルの物語を収める。
古典 · 紀元前4世紀ごろ荘子
蝶になる夢から覚めた荘周が、自分が蝶の夢を見たのか、蝶が自分の夢を見ているのかを区別できない、と語る。その変わりゆきを「物化」と呼ぶ。
荘子『荘子』斉物論篇(胡蝶の夢). 原文と Legge, J. (Trans.) 英訳. Chinese Text Project.
論文 · 1989外村彰ほか
電子を1個ずつ飛ばし、点が積み重なって干渉縞になっていく様子を記録した実験。
論文 · 1982スカリーとドリュール
どちらの経路を通ったかの情報を、あとから消せば干渉が戻るはずだ、という「量子消しゴム」の実験を提案した。
論文 · 2002ウォルボーンほか
光子を使って、二重スリットでの量子消しゴムを実験で示した。
論考 · 1989発表ホイーラー
「It from bit」。あらゆる物理量は、イエスかノーかの問いへの答えからその意味を得ている、と考えた。リンク先は解説。
論文 · 1982ファインマン
量子のふるまいを、ふつうのコンピューターでまねしようとすると、粒の数が増えるにつれて必要な計算が爆発的に増えると指摘し、量子の仕組みで動く計算機を考えた。
論考 · 1961ウィグナー
意識が量子論に入ってくることは避けられない、と論じた(「ウィグナーの友人」の思考実験)。のちに本人がこの立場を退けた。リンク先は解説。
論文 · 1905アインシュタイン
特殊相対性理論の最初の論文。動いている時計はゆっくり進むことを導いた。
Einstein, A. (1905). Zur Elektrodynamik bewegter Körper. Annalen der Physik, 322(10), 891–921.
論文 · 1972ハーフェルとキーティング
原子時計を旅客機で東回り・西回りに飛ばし、地上の時計とのずれが相対性理論の予測と合うことを確かめた。
論文 · 1977ベイリーほか
光に近い速さで円を描いて回るミュー粒子が、止まっているときよりずっと長く生きることを測り、時間の遅れを確かめた。
論文 · 2014ビーンほか
この宇宙が時空のマス目の上で計算されていると仮定し、観測でわかりうる手がかりを調べた。宇宙線のエネルギーの上限からマス目の細かさに下限をつけ、最高エネルギーの宇宙線の向きにマス目の跡が出うると論じた。
論文 · 1935アインシュタインほか
もつれた2つの粒子を例に、量子力学の記述は不完全で、結果はあらかじめ決まっているはずだと論じた。
論文 · 1964ベル
結果があらかじめ決まっているという考えが正しいかを、実験で確かめられる不等式の形にした。
Bell, J. S. (1964). On the Einstein Podolsky Rosen paradox. Physics Physique Fizika, 1(3), 195–200.
論文 · 1972フリードマンとクラウザー
もつれた光子でベルの不等式を確かめ、あらかじめ決まっているという考えでは説明できない結果を得た。
論文 · 1982アスペほか
測り方を途中で切りかえる装置で、ベルの不等式が破れることを確かめた。
論文 · 2015ヘンセンほか
1.3km離した電子のスピンで、これまでの実験に残っていた抜け道をふさいでベルの不等式の破れを確かめた。
論文 · 2008サラールほか
18km離れた2つの村で実験し、もし何かが伝わっているなら、ある仮定のもとで少なくとも光の1万倍の速さが要ることを示した。
古典 · 紀元前7〜6世紀ごろヤージュニャヴァルキヤの問答
見ることの見る者を見ることはできない、聞くことの聞く者を聞くことはできない、と語る。
Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad(『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』), 3.4.2. Swami Krishnananda による注解.
書籍 · 1922ウィトゲンシュタイン
主体は世界に属さず、世界の限界である。眼は視野の中に見えない、というたとえで語る。
