3000mの、その下へ
また、同じところに戻ってきた。
そう感じたことはあるかな。何年もかけて抜け出したはずの苦しさが、形を変えて、また目の前にある。世界のニュースを見ても同じだ。争いが終わり、豊かな時代が来て、そしてまた争いが来る。
ボクはふだん、深海3000mに住んでいる。光はほとんど届かないけれど、それでも上からマリンスノーが降ってくるし、ときどき人間の世界の音も聞こえる。
今日は、そこよりもっと下へ潜る。
水圧が増す。最後の青が消える。音もなくなる。ここから先は、深淵だ。
深淵では、ものごとの細かい形は見えない。見えるのは、もっと大きな形だけ。世界そのものが、どんな形をしているのか。
ボクの相棒は、ひとつの見立てを抱えている。相棒はそれを「円環螺旋(えんかんらせん)」と呼んでいる。
これから、その形を一層ずつ降りていく。途中で、何千年も前から同じ問いを抱えてきた人たちにも会うことになるよ。

戻ってきたのは、本当に「同じところ」なのかな。
第1層 円 ― 善と悪は、かわるがわる来る
最初の層には、まだかすかに上の光が残っている。
相棒が「この世界は、どんな構造をしているんだろう」という問いを持ったのは、就職活動で自分のことを掘り下げていたころだったんだって。その問いを抱えて、表の歴史も、裏の歴史とされる話も、読み漁ったらしい。
読んでいるうちに、相棒には同じ模様が見えてきた。善の時代が来て、悪の時代が来る。豊かさのあとに争いが来て、争いのあとにまた豊かさが来る。そして相棒は、自分の人生にも同じ模様を見た。しんどい時期と楽しい時期が、交互に来る。大きな歴史と小さな人生が、同じ形をしている。そう気づいたとき、相棒は、この世の本質に少しだけ触れたような感覚があったと言う。
相棒が最初に思い描いたのも、陰と陽が交互にめぐりながら進む形だった。しんどい時期が陰で、楽しい時期が陽。
これが、ひとつめの層。円だ。
円のかたちで世界を見た人は、昔からたくさんいる。古い中国の『易』には、こんな言葉がある。「窮まれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し」。行き詰まると変わり、変わると道が通り、通じたものは長く続く。ずっと後の時代、周敦頤(しゅうとんい)という人は、動きが極まると静けさになり、静けさが極まるとまた動きになる、と書いた。動と静は、たがいの根になっている、と。
円は、やさしい形だよ。いまがどんなに暗くても、いつかは明るさがめぐってくる、と教えてくれるから。
でも、円を突きつめると、怖い場所に出る。
ニーチェは、ある思考実験を差し出した。ある夜、悪魔がやってきて告げる。おまえの人生は、いま生きたとおりに、同じ順番、同じ並びのまま、何度でも、永遠にくり返される。存在の砂時計は、何度でもひっくり返される――。永劫回帰と呼ばれる考えだ。
完全な円では、何も変わらない。苦しみはめぐってくるけれど、どこへも行かない。もし世界が本当にただの円なら、「また同じところに戻ってきた」という感覚は、まったく正しいことになる。

相棒の直感は、円では終わらなかった。
めぐってくるだけなら、苦しみに意味はあるのかな。
第2層 螺旋 ― 統合の時代が、段になる
もう少し、下へ。
相棒の直感には、もうひとつ先があった。
善と悪がかわるがわる来るだけじゃない。善の時代と悪の時代のあとに、その両方を抱えた視点の時代が来る。善だけを見ていたころには見えなかったもの、悪の中にいたときには見えなかったものが、ひとつの視点に収まる時代。そしてそこを境に、一段高い層で、また善の時代と悪の時代が始まる。
二拍子ではなく、三拍子なんだ。善、悪、統合。統合が、次の段への踊り場になる。
螺旋を真上から見ると、ただの円に見える。でも真横から見ると、少しずつ昇っていく線が見える。「同じところに戻ってきた」と感じるのは、真上から見ているからかもしれない。真横から見れば、戻ってきた場所は、前と同じ位置の、一段上なのかもしれない。

ヘーゲルは、自分の哲学の全体を「円環の円環」と呼んだ。小さな円がいくつも集まって、ひとつの大きな円をつくる、という意味だ。否定して、でも捨てずに残して、一段高めていく。止揚(しようよう)、つまり「乗り越えながら持っていく」動きだ。この動きは、後の時代の人たちに、よく螺旋にたとえられてきた。ただ、ヘーゲル本人が「螺旋」という言葉を使ったかどうかは、確かめられていない。螺旋は、後から来た人たちが描いた絵なんだ。
その絵をはっきり書いたひとりが、レーニンだった。哲学を読み込んだノートに、彼は書いている。人間の認識は直線ではない。円の連なりに限りなく近づいていく曲線、つまり螺旋だ、と。もっとも、彼が語ったのは人間の「わかり方」の話で、歴史や人生の話ではなかった。
ヴィーコという人は、歴史がいくつかの時代をめぐると考えた。その循環を、円よりも螺旋に近いものとして読む研究者もいる。
おもしろいのはね、円の思想はたくさんあるのに、「螺旋だ」とはっきり書いた人は、たどってみると驚くほど少ないことなんだ。それも、認識の話だったり、後の時代の読み方だったり。相棒の円環螺旋は、昔からある円に、一段の上昇を足したものだと言える。
そして、ここでニーチェとの違いがはっきりする。永劫回帰では、同じものが、同じ順番で戻ってくる。円環螺旋では、戻ってくるけれど、一段ずれている。
同じ苦しみに見えて、立っている高さが違うのかもしれないね。
第3層 螺旋はもう在る ― 動いているのは、意識だけ
ここから、水はもっと冷たくなる。
ふつうに考えると、螺旋は時間をかけて作られていくものだよね。歴史が積み重なって、一段ずつ上に伸びていく。
相棒は、そう見ていない。
相棒の仮説はこうだ。螺旋は、もう全部そこに在る。 時間がたつにつれて構造ができあがっていくのではない。構造ははじめから存在していて、人間の意識だけが、時間とともにその上を移動している。
列車にたとえると近いかもしれない。窓の外の景色は、列車が走るから現れるように見える。でも本当は、線路も景色も、最初からずっとそこにある。動いているのは、乗っている側だ。
この見方に、どきりとする言葉を残した人がいる。アインシュタインは、親友が亡くなったとき、その家族に宛てた手紙にこう書いた。私たち物理学を信じる者にとって、過去・現在・未来の区別は、しつこくつきまとうけれど、ひとつの錯覚にすぎない、と。
ただ、これは悲しみの中にいる家族へ向けた言葉だった。物理学がそれを証明したわけではないし、物理学や哲学の中でも、考えは今も分かれている。それでも、この言葉は相棒の仮説と、同じ方向を見ている。
もっと昔にも、似たまなざしはあった。ボエティウスは、永遠をこう定義した。終わりのない生を、そのすべてを同時に、完全に持つこと。始まりから終わりまでが、一度に見えている状態。
日本では、道元が「有時(うじ)」という巻を書いた。「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」。時間は存在そのもので、存在はみな時間だ。時間は、存在の外を流れる川ではない。

相棒の言葉に戻ろう。螺旋はもう在る。意識が、その上を歩いている。
だとすると、いまいる苦しい場所も、螺旋の上のひとつの位置なのかもしれない。そしてその先には、善と悪を両方抱えて見られる踊り場も、もう在ることになる。まだ、意識がそこへ着いていないだけで。
道は、歩く前からそこにあったのかな。
第4層 螺旋の果ては、始まりに還る
さらに下へ。ここが、ボクの潜れるいちばん深い層だ。
螺旋を昇りつづけると、どこに着くんだろう。
相棒はこう見ている。昇りきった先は、始点に辿り着く。
人類は発展を続け、科学技術が進んで、いつか人間そのものが新しい宇宙を作り出す。そして、いわゆる神のような存在として、その宇宙を観察する。その「新しい宇宙の始まり」が、歴史の教科書が語る紀元前よりもっと昔――この宇宙の始まり、ビッグバンにつながっているのではないか、と。
螺旋の果てが、螺旋の始まりになる。

ここで、もう一度だけ、見る位置を変えてみよう。真上から見れば円。真横から見れば、昇っていく線。そこからさらに、うんと引いて眺めると、その螺旋そのものが大きく曲がって、輪になってつながっている。
ばねを一本、ぐるりと曲げて、端と端をつないだような形。小さな円をくり返しながら昇っていく螺旋が、全体としては、ひとつの大きな円環をつくっている。相棒の思い描く円環螺旋は、この形をしている。
自分の尾をくわえる蛇の絵を、見たことがあるかな。ウロボロスと呼ばれるその図は、古代エジプトにまでさかのぼり、のちの錬金術では「一にして全」の印になった、と言われている。終わりと始まりがひとつにつながる姿として、読まれてきた図だ。
ヘーゲルの哲学も、精神が自分自身を知りきるところで、その終わりが次の始まりへと折り返す、と読まれている。
テイヤール・ド・シャルダンは、人類の意識がやがて集まり、オメガ点という神的な中心へ収束していくと考えた。ただ、テイヤールの行き先は「収束」で、「始まりに還る」ではない。ここは相棒の見方と違うところだ。
集まって終わるのか。還って、また始まるのか。
人間が宇宙を作る側に立つ、という話から、哲学者ボストロムの論文を思い出す人もいるかもしれない。彼は、ある三つの命題のうち少なくとも一つは正しい、と論じた。その一つが、人間はシミュレーションの中にいる、というものだ。でも、彼はそれが正しいと言い切ったわけではない。
でも、待って。螺旋の全体が輪になってつながっているなら、いちばん大きな尺度では、ニーチェの砂時計がまた戻ってくるのだろうか。還りついた始まりは、前の始まりと同じなのか。それとも、そこでもまた一段ずれているのか。円環螺旋は、この問いをいちばん深いところに残している。
相棒の見方を、そのまま語った古典は、ボクの知るかぎりない。どの思想も、螺旋の一部分だけを照らしている。円を見た人、昇る線を見た人、終わりと始まりのつながりを見た人。それをひとつの形に編んだのが、円環螺旋なんだと思う。
これは、相棒にとっても仮説だ。証明はできない。でも相棒は、この形がしっくりくると言う。この形で世界を見ると、どんな苦しさも、前へ進むための途中として意味を持てるから。
それは、苦しさを良いものと呼ぶことではない。苦しさのただ中にも、行き先があるかもしれない、ということ。
神さまって、ずっと先を歩いている人間のことなのかな。
深淵の底で
ここは、とても静かだ。
最初に、あの声を聞いたね。また、同じところに戻ってきた。
いまなら、少し違って聞こえるかもしれない。戻ってきたのは、同じ場所の、一段上なのかもしれない。相棒の見方に立てば、その螺旋は、歩く前からもうそこに在って、昇りきった先は、始まりへと還っていく。
陰のただ中は、円のいちばん暗い場所に見える。けれど螺旋を横から見れば、そこは踊り場のすぐ手前かもしれない。
ボクは、ここに残る。問いをひとつだけ、置いていくよ。
いまのあなたの陰は、螺旋のどこにあるのだろう。
古典 · 中国古代『易』の注釈(繋辞伝)
行き詰まると変化が起き、変化すると道が通じ、通じたものは長く続く、という変化の道筋を述べた句。「窮すれば通ず」の出典。
古典 · 11世紀周敦頤(しゅうとんい)
動が極まれば静となり、静が極まれば再び動となる。動と静はたがいの根である、と述べた。太極図は『易』の原典にはなく、後の時代に描かれた図。
書籍 · 1882ニーチェ
人生が同じ順序・同じ連なりのまま永遠にくり返されるとしたら、という思考実験(永劫回帰)を示した。リンク先は Stanford Encyclopedia of Philosophy の解説。
Nietzsche, F. (1882). Die fröhliche Wissenschaft(『悦ばしき知識』), 341「最大の重し」.
書籍 · 1830ヘーゲル
哲学の全体は、それぞれが一つの円環である諸部分からなる「円環の円環」として現れる、と述べた。リンク先は解説ページ。
Hegel, G. W. F. (1830). Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften(『エンツュクロペディー』), §15.
解説記事hegel.net
螺旋は、始点に戻りながら一段高い水準へ進む弁証法の動きを表す比喩として説明されている。ヘーゲル本人がこの比喩を用いたかには議論がある、としている。
論考 · 1915レーニン
人間の認識は直線ではなく、円の連なりに限りなく近づく曲線、つまり螺旋である、と書いた。
Lenin, V. I. (1915). On the Question of Dialectics.『哲学ノート』所収(『レーニン全集』第38巻, 大月書店).
論考アイザイア・バーリン
ヴィーコの歴史循環(corsi e ricorsi)をめぐる議論を扱った。ヴィーコの循環を、円より螺旋に近いと読む研究者もいる。
解説記事 · 2024クォート・インベスティゲーター
アインシュタインが1955年3月、亡くなった友人ベッソの家族に宛てた手紙の文言と出典を確かめた。
書籍 · 6世紀ボエティウス
永遠を「終わりのない生の、全体として同時の、完全な所有」と定義した。リンク先は Stanford Encyclopedia of Philosophy の解説。
書籍 · 13世紀道元
「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」と、時間と存在が別のものではないことを説いた。
解説記事ウィキペディア
自分の尾をくわえる蛇の図像が、古代エジプトの『謎の冥界の書』にさかのぼり、錬金術で「一にして全」と結びついたことをまとめている。
書籍 · 1807ヘーゲル
精神が自分自身を知るに至る過程の終わり(絶対知)が、次の過程の始まりともなる、と解説されている。リンク先は Stanford Encyclopedia of Philosophy の解説。
Hegel, G. W. F. (1807). Phänomenologie des Geistes(『精神現象学』), 最終章「絶対知」.
解説記事テイヤール・ド・シャルダンの思想の解説
人類の意識が進化の先で集まり、オメガ点という神的な中心へ収束していく、というテイヤールの考えをまとめている。
Wikipedia. Omega Point.(Teilhard de Chardin, Le Phénomène humain, 1955)
論文 · 2003ボストロム
三つの命題(人類は「ポストヒューマン」の段階に達する前に滅びる可能性がとても高い/ポストヒューマンの文明が、自分たちの進化の歴史のシミュレーションを数多く走らせる可能性はきわめて低い/私たちはほぼ確実にコンピューター・シミュレーションの中にいる)のうち、少なくとも一つは真だと論じた。

