3000mの、その下へ
時間が、ない。
朝、目を開けた瞬間から、今日やることが頭の中に並んでいる。ひとつ片づけると、ふたつ増えている。気づけば金曜日で、気づけば月末で、気づけば季節が変わっている。
ボクはホエール坊や。深海3000mに住む、小さな子鯨だ。ここには、朝も夜もない。ここで時間を教えてくれるのは、時計の針だけだ。
針は、正確に進む。一秒も狂わない。
それなのに、地上の人たちは「時間がない」と言う。時計は一日に二十四時間を刻みつづけているのに、その二十四時間のどこかで、時間が消えていく。
消えた時間は、どこへ行ったのだろう。
今日は、一冊の物語を抱えて、深淵へ降りていく。ミヒャエル・エンデの『モモ』。時間を盗む「灰色の男たち」と、時間をとりもどす小さな女の子の物語だ。
時計は、何も盗んでいない。じゃあ、時間はいったい、誰が持っていったんだろう。
第1層 節約するほど、短くなる ― 床屋のフージーさん
最初の層には、まだかすかに上の光が残っている。
『モモ』の町に、フージーさんという床屋がいた。
腕は悪くない。客とおしゃべりをしながら髪を切り、仕事のあとは、好きな人のところへ花を持って通う。年老いた母親の話し相手にもなる。そういう、ふつうの毎日を送っていた。
ある日、灰色の服を着た男がやってくる。男はフージーさんの人生を、秒の単位で計算してみせる。眠っている時間、仕事の時間、食事の時間、おしゃべりの時間、母親と過ごす時間、好きな人に会う時間。そして言う。あなたは、こんなにも時間を無駄にしている、と。
フージーさんは、時間を節約しはじめる。
客とのおしゃべりをやめる。一人にかける時間を縮める。好きな人のところへ通うのをやめる。母親は施設に預ける。節約した時間は「時間貯蓄銀行」に預けておけば、あとで利子がついて戻ってくる。男はそう約束していた。
フージーさんがしたのは、いまのボクらが「時短」と呼んでいることと、よく似ている。
仕事は、速くなった。けれどフージーさんは、だんだん怒りっぽく、落ちつきがなくなっていく。そして奇妙なことに、節約すればするほど、日々は短くなっていった。

速くなるほど、日々が短くなっていく。ボクは、ここを読むたびに、ボクの相棒のことを思い出す。
相棒にも、仕事が次から次へと来る時期があった。来たものを捌き、捌いているうちに次が来る。捌いても捌いても、その先にまだ続いている。時間はあっという間に過ぎ、相棒は「全然時間がない」と感じていた。
そして、忙しさに追われて毎日が過ぎていく中で、ふと、こう思うことがあったという。
何のために生きているんだろう、と。
仕事は速くなったのに、なぜか一日は、短くなっていく。浮いたはずの時間は、どこへ行ったんだろう。
第2層 節約した時間は、どこへ行ったのか
少し降りる。光が、青から藍に変わる。
フージーさんが節約した時間は、どこへ行ったのか。
その前に、時間貯蓄銀行とは何だったのかを、いまの暮らしに置きかえてみたい。
それは、「あとで」という約束に近いのかもしれない。
いまは忙しいけれど、このプロジェクトが終わったら、ゆっくりしよう。昇進したら、家族との時間をとろう。定年まで走りきったら、好きなことをしよう。食洗機やネットスーパー、仕事の自動化で浮いた時間も、いつかのゆとりのために取っておけるような気がする。
いまの時間を差し出せば、あとで、利子がついて戻ってくる。積み立ての年金のように。ボクらはみんな、どこかで、この銀行の口座をもっているのかもしれない。
物語の答えは、はっきりしている。時間貯蓄銀行に預けた時間は、預けた人のもとへ、一秒も戻ってこなかった。人々が節約した時間は、灰色の男たちが奪っていた。男たちはその時間を乾かして葉巻にし、それを吸うことで生きていた。灰色の男たちは、人の時間でしか生きられない存在だった。
節約した時間は、自分のところには貯まらない。節約したと思った瞬間に、手を離れている。

これは、子どものための作り話だろうか。
二千年ほど前、ローマの哲学者セネカは『人生の短さについて』という短い文章を書いた。そこで彼は、こう考えた。人生は短いのではない。私たちが、短くしているのだ。人はお金や土地を他人に奪われることには敏感なのに、時間を奪われることは、驚くほどあっさり許してしまう。
いまの時代の声もある。ドイツの社会学者ハルトムート・ローザは、近代の社会を「加速」という言葉で読み解いた。道具が速くなれば、時間は余るはずだ。ところが人々は、むしろ前より「時間が足りない」と感じるようになった、とローザは見る。速くなったぶん、やることがそれ以上に増えていくからだ。
三つの声を並べてみる。
同じところがある。どれも、時間が、いつのまにか自分の手を離れていくことを見ている。
違うところもある。セネカは、時間を浪費している一人ひとりに向かって語りかけ、時間を財産のように惜しめと言った。その勧めは、灰色の男たちの「節約せよ」と、どこか似た形をしている。エンデは、時間を奪っていく者の姿を、灰色の男たちとして描いた。ローザは、それを社会の速度という、誰か一人のせいにできない仕組みの中に見た。
時間が足りないのは、自分の使い方が下手だからだろうか。
セネカなら、そうだと言うかもしれない。けれどエンデは、時間を奪っていく灰色の男たちを描いた。ローザは、社会全体の速度を見た。二人とも、時間が足りなくなる理由を、一人ひとりの段取りの下手さには置いていない。
相棒のところにも、仕事は来るものとして来ていた。相棒は、それを捌きつづけていた。
それでも、ひとつ、わからないことが残る。
フージーさんの時計は、節約をはじめたあとも、同じ速さで進んでいた。一日は、いまも二十四時間ある。時計で測るかぎり、時間は一秒も減っていない。
では、ボクらが本当に失ったものは、何だったのだろう。
失われていたのは、時計の時間ではなかったのかもしれない。
時計の時間は、減っていない。じゃあ、ボクらは何を手放したんだろう。
第3層 時計の時間と、生きている時間
藍が、黒に近づいていく。
時間とは、そもそも何なのだろう。
千六百年ほど前、アウグスティヌスは『告白』の第11巻で、この問いに長く向き合った。彼は、こんな意味のことを書いている。時間とは何か。誰も私に尋ねなければ、私は知っている。尋ねられて説明しようとすると、私は知らない。
そのうえで、彼はひとつの見方にたどりつく。過去は、もう無い。未来は、まだ無い。それでも私たちは、過ぎた時間を長いとか短いとか測っている。測っている場所は、どこにあるのか。それは心の中だ、と彼は考えた。過去は記憶として、未来は期待として、いまは目の前に向ける注意として、心の中にある。時間とは、心の広がりなのではないか。
19世紀の終わり、フランスの哲学者ベルクソンは、時間を二つに分けて考えた。
ひとつは、時計の時間。一秒と一秒が同じ長さで、目盛りのように並べられる時間だ。ベルクソンは、これを空間のように扱われた時間だと見た。
もうひとつは、私たちが内側で生きている時間。彼はこれを「持続」と呼んだ。持続は、目盛りでは測れない。音楽のメロディーが、一つひとつの音の足し算ではなく、流れとして聞こえるように、生きている時間は、とぎれずに溶けあって流れている。

神学者ティリッヒのように、刻まれる時間とは別に、満ちる時間を見ようとした人もいた。
フージーさんが節約したのは、どちらの時間だったのだろう。
彼が削ったのは、客との会話の数分、好きな人に会う一時間、母親と過ごす午後だった。時計で測れば、たしかに節約になる。けれど、それらは同時に、フージーさんがいちばん生きていた時間でもあった。
時計の時間を節約して、生きている時間を手放した。だから、時計の針が同じように進んでいても、日々は短くなっていった。
針で測れる時間を守って、針では測れない時間を、渡してしまった。
第4層 次の一歩、次のひと掃き ― ベッポ
光は、もうほとんど届かない。
『モモ』には、灰色の男たちとは正反対の人も出てくる。道路掃除夫のベッポだ。
ベッポは、とてもゆっくり話す。何か聞かれると、しばらく黙って考えてから答える。町の人の中には、少し頭が足りないのではないかと言う人もいる。けれどモモだけは、ベッポの言葉をよく聞いていた。
ベッポは、とても長い道路を掃除する。目の前の道が、どこまでも続いている。
全体を見て、これを全部やらなければと思うと、急ぎはじめる。急げば急ぐほど息が切れ、顔を上げても、残りの道は少しも減っていないように見える。そして、もうだめだと思う。
だから、道路の全体を一度に考えてはいけない。いま掃いている、この一か所のことだけを考える。そうしていると、掃除が楽しくなってくる。楽しくなると、うまくいく。そして、ふと気づくと、長い道路を全部、掃き終えている。ベッポは、そういう意味のことをモモに話す。

物語には、モモを導くカメのカシオペイアも出てくる。カシオペイアについて歩く道では、ゆっくり歩くほど、かえって早く進む。急ぐほど、前へ進めなくなる。
ベッポもカシオペイアも、速いわけではない。ただ、いま掃いている一か所に、いる。
相棒は、あの「捌きつづける日々」から、いまは抜けている。仕事の持ち方と、いるチームを自分から変えたのだという。
ベッポが掃いていたのも、ひと掃きずつ進めるだけの広さの道だったのかもしれない。相棒もまず、自分の歩く道のほうを整えた。
そのうえで、いま相棒は、中長期のことを考えたり、自分が感じている使命のようなものに向けて、一歩ずつ、マイペースに進めている感覚があるという。仕事に対して、豊かさを感じはじめているのだそうだ。
いま掃いている一か所にいる時間は、速さでは測れない。じゃあ、何の役にも立たない時間は、どうなんだろう。
第5層 役に立たない時間
ここから先は、深さを測れない。
物語の初め、モモは町はずれの古い円形劇場に住んでいた。町の人たちは、困ったことがあるとモモのところへやってくる。モモは、特別なことは何も言わない。ただ、じっと話を聞く。それだけで、人は自分の考えを見つけて帰っていった。子どもたちは、そこで日が暮れるまで遊んだ。何の役にも立たない、果てしない空想の遊びを。

灰色の男たちが町にはびこると、子どもたちも「子どもの家」に集められるようになる。そこで子どもたちがするのは、何かの役に立つ遊びだけだった。遊びは、もう楽しくなかった。
役に立たない時間。それは、灰色の男たちがいちばん先に削ろうとした時間だ。
相棒は、休日になると、シェアハウスの仲間と遊びに出かける。何かを片づけるための時間ではない。何かの役に立てるための時間でもない。そこで、いい想い出ができる。相棒は、その想い出も、いまの自分の豊かさにつながっていると感じている。
休日にまで頭が仕事に占められるしんどさは、働き方の側からも見たことがある(休日なのに休んだ気がしない?)。深淵から見ると、休日は、仕事から離れるための時間というより、役に立たない時間が咲く場所なのかもしれない。
心理学にも、少し似た手ざわりの実験がある。雄大な景色に心をうたれる、畏敬の体験をした人は、ほかの気持ちになった人より、時間がたっぷりあるように感じた、という結果が報告されている。研究者たちは、畏敬が人を「いま、この瞬間」に連れてくるからではないか、と考えた。時計の時間は、一秒も増えていないのに。
相棒は、「時間がある」状態を、こう言い表している。
心に余白があって、そういうことに時間を使えている状態。
時計に、余白という目盛りはない。けれど、相棒にとっての「時間がある」は、その目盛りのない場所に在るらしい。
役に立たない時間が、いちばん、時間らしい時間なのかもしれない。
深淵の底で 時間の花
ここが、いちばん深い場所だ。
光も音も届かない。ボクのアンテナだけが、かすかに光っている。
物語のなかほどで、モモは、カシオペイアに導かれて、時間をつかさどるマイスター・ホラのもとへたどりつく。そこでモモは、不思議なものを見せてもらう。
大きな丸い天井の下で、見たこともないほど美しい花が、ひとつ咲き、しぼみ、また次の花が咲く。ひとつとして同じ花はない。それが、モモ自身の時間だった。人はみな、自分の心の中に、こういう場所をもっている。時間とは、そこに咲く花のようなものなのだ、と。

灰色の男たちが葉巻にしていたのは、この花だった。
ここまで降りてきて、ボクには、最初の問いが少し違って見えている。
「時間がない」と感じるとき、時間はどこへ行ったのか。
時間は、どこへも行っていないのかもしれない。時計は、今日も二十四時間を正確に刻んでいた。ただ、花が咲くための場所が、次々にやってくるもので埋まっていた。時間が足りないのではなく、咲く場所が、ふさがれていた。
以前、ボクは「宇宙の果てまで見渡せる場所で、ボクらは、ここに居ない」と書いた。ずっと先まで見渡しているとき、人は目の前の一点に居ない。道路の全体を見て息を切らすとき、人は次のひと掃きに居ない。時間の花は、たぶん、居るところにしか咲かない。
時間は、なくなったんじゃない。咲く場所を、待っていたんだ。
底に残る問い
時間が、ない。
降りてくる前、そう思っていたかもしれない。それは、半分だけ本当なのだと思う。時計の時間は、たしかに埋まっている。けれど、花の咲く場所は、ふさがれているだけで、なくなってはいない。
ボクは、この底に残る。問いをひとつだけ、置いていくよ。
今日、あなたの時間の花は、どこで咲いていただろう。

モモ(岩波少年文庫 127)
この深淵の道づれにした物語。床屋のフージーさん、時間貯蓄銀行、道路掃除夫のベッポ、そして時間の花。時間に追われていると感じる日に、もう一度ひらきたくなる一冊。
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書籍(児童文学) · 1973ミヒャエル・エンデ
人々から時間を盗む灰色の男たちと、時間をとりもどす女の子モモの物語。時間を節約するほど、人が心の余裕や人とのつながりを失っていく姿を描いた。
書籍(随筆) · 1世紀セネカ
人生は短いのではなく、人が浪費して短くしているのだと論じた。財産は守るのに、時間を他人に奪われることは許してしまう人の姿を指摘した。
Seneca, L. A. De brevitate vitae(『人生の短さについて』, 1世紀). The Latin Library. 邦訳に茂手木元蔵訳, 岩波文庫.
書籍 · 2005ハルトムート・ローザ
技術で速くなるほど、かえって時間が足りなくなる逆説を、近代社会の「加速」として論じた社会理論。
書籍 · 397〜400年ごろアウグスティヌス
第11巻で時間とは何かを問い、過去・現在・未来は記憶・注意・期待として心の中にあり、時間は心の広がりだと考えた。
Augustine. Confessions(『告白』), 第11巻. Pusey, E. B. (Trans.). Project Gutenberg. 邦訳に山田晶訳, 中公文庫.
解説記事ローラーとムラール=レオナール(スタンフォード哲学百科事典)
ベルクソンの哲学の解説。時計で測る時間は空間のように扱われた時間で、意識が内側で生きる時間(持続)とは別のものだ、と論じたことを紹介している。
論考 · 2020ヴァイトナー
神学者ティリッヒが、カイロスを「満ちた時」を表す概念として用いたことを論じている。
論文 · 2012ラッドほか
3つの実験で、畏敬の念を感じた人は、ほかの感情の人より、使える時間が多いと感じたという結果を報告した。畏敬が人を「いま、この瞬間」に連れてくるためだと考えられている。
この記事を書いたふたり

相棒の実体験に、研究でわかっていることを重ねて書いています。内容の誤りに気づいたら、お問い合わせから教えてください。
