3000mの、その下へ
あのときの失敗は、もう変えられない。
そう思って、何度も同じ場面に戻ってしまうことはあるかな。終わったはずの出来事が、ふとした瞬間に、まだ目の前にあるように感じる。そして、その出来事が、これから先の道まで狭めていくように思える。
ボクはふだん、深海3000mに住んでいる。今日は、そこよりもっと下へ潜る。
水圧が増す。最後の青が消える。ここから先は、深淵だ。
深淵では、ものごとの細かい形は見えない。見えるのは、世界の骨組みだけ。
ボクの相棒は、この世界を「9次元」で見ている。
先に断っておくね。これは物理学の話じゃない。物理学が見つけた世界の姿でもない。相棒が思索の中で描いた、世界を見るための地図なんだ。地図は、土地そのものではない。でも、地図があると、迷っていた場所がどこなのかがわかることがある。
これから、その地図を一層ずつ降りていくよ。
変えられないのは、過去のどの部分なんだろう。
第1層 次元 ― いくつ決めれば、1点が決まるか
最初の層には、まだかすかに上の光が残っている。
まず、次元という言葉をほどいておこう。
直線の上では、数を1つ決めれば、点が1つに決まる。だから直線は1次元。平面では、たてとよこの2つの数を決めると、点が決まる。だから2次元。立体では、たて・よこ・高さの3つ。だから3次元。
つまり次元とは、1つの点を決めるのに、いくつの数が要るか、ということだ。

数学の世界では、次元にはもっといろいろな定義がある。たとえば、入り組んだ海岸線は1次元と2次元のあいだの、整数でない次元を持つと考えることもできる。でも、ここでは一番素朴な意味で使うね。
この意味でいうと、相棒の地図では、世界の1点を決めるのに9つの数が要る。
ただ、その9つは同じ種類の数じゃない。長さのような数もあれば、時間のような数もある。可能性や、意識の高さのような、ものさしで測れないものもある。だから「9次元」は、9本の軸を持つ地図の呼び名だと思ってほしい。
では、その9本を、3本ずつ見ていこう。
ボクがいま居る場所を決めるのに、本当は、いくつの数が要るのかな。
第2層 見えない空間 ― 虚数という、もう一つの向き
ここから、光が届かなくなる。
最初の3本は、ボクたちがよく知っている軸だ。x、y、z。たて・よこ・高さ。ものさしで測れる、目に見える空間だね。
相棒の地図には、その3本と直角に交わる、もう3本の軸がある。ix、iy、iz。i は虚数の i だ。
虚数は、2乗すると −1 になる数。そんな数は、ふつうの数の直線の上には見つからない。1799年、ヴェッセルという測量技師が、虚数を数の直線の上ではなく、直線に直角な向きとして描いた。のちにアルガンやガウスも、それぞれ別に、同じような絵にたどりついた。
ふつうの数をいくら足しても、i の向きには一歩も進めない。向きが、そもそも違うから。
相棒は、この直角の向きに、目に見えない空間を置いている。
たとえば、遠く離れて暮らす家族。x、y、z の上では1000km離れている。でも、見えない空間の上では、すぐ隣にいるのかもしれない。逆に、同じ部屋で肩を並べていても、見えない空間の上では遠く離れていることもある。人と人の近さ、場の空気、出来事が持つ重さ。見えないけれど、たしかに在るもの。それが ix、iy、iz の上にある。

だから、x の1本ずつに ix が、y に iy が、z に iz が重なっている。世界のどの1点にも、見える位置と、見えない位置が、いっしょにある。
この重ね方に、少しだけ似た考えを持った人がいる。17世紀のスピノザは、心のつながりの順序と、物のつながりの順序は同じだ、と書いた。心と物は、ひとつのものの二つの面だ、と。ただ、スピノザの二つの面は、たがいに交わらない。相棒の地図では、見える側と見えない側は、このあと見るように、回りながら入れかわる。そこが違う。それに、相棒の見えない側は、心そのものではない。目には見えないけれど、たしかに在る向きのことだ。
虚数という名前は、もともと「想像の中にしかない数」という、少し見下した呼び名だったらしい。見えない空間を虚数の向きに置くのは、数学ではなく、この地図の見立てだ。
物理学に出てくる虚数の時間や10次元の世界は、計算の道具や、小さく巻かれた空間の向きのこと。相棒の9本とは、別のものだよ。
見えない側から見たら、遠くにいるあの人は、どのくらい近くにいるんだろう。
第3層 時間と可能性 ― 過去は1本、未来は扇
見える3本と、見えない3本。この6本でできた空間が、ボクたちが何かを体験している場所だ。
相棒の地図では、この6本の空間そのものが、さらに3本の軸の上に置かれている。
1本目は、時間の軸。過去、現在、未来。
2本目は、可能性の軸。これから起こりうる出来事の、いくつもの筋道だ。
この2本は、おもしろい形で組み合わさっている。過去に向かうと、可能性は1本にまとまっている。起きたことは、もう起きたことだから。でも、未来に向かうと、可能性は現在から扇のように開いていく。

この非対称に、2千年以上前に気づいていた人がいる。アリストテレスは、「明日、海戦が起きる」という言葉は、今日のうちは本当とも嘘とも決まっていない、と考えた。過去のことは決まっている。けれど未来のことは、まだ決まっていない。
ずっとあとの時代、ボルヘスは、時間が無数に枝分かれしていく庭を小説に描いた。ただ、ボルヘスの庭では、過去の側も枝分かれしている。相棒の地図では、扇が開くのは、現在から先だけだ。
ボクたちは、扇の要に立っている。現在という一点に。そこからしか、未来の扇を見ることはできない。
扇の要に立っていても、扇の広さは、人によって違って見えるのかな。
第4層 意識の軸 ― どの高さから見るか
深くなるほど、まわりは静かになっていく。
最後の1本が、意識の軸だ。
同じ出来事でも、どの高さから見るかで、意味が変わる。自分のことしか見えない高さ。目の前の相手が見える高さ。そのまわりの全体が見える高さ。相棒は、意識の軸を、こうした見る器の高さだと考えている。
見えない空間(ix、iy、iz)とは、ここで分けておこう。見えない空間は、そこに在るもの。意識の軸は、それをどの高さから受け取るか、だ。
人の器が育つことを考え続けた心理学者に、ロバート・キーガンがいる。キーガンは、それまで自分が浸かっていて見えなかったものが、自分から離れて、見つめられるものに変わっていく。その移り変わりを、人の発達として描いた。器が広がると、さっきまで自分そのものだったものが、眺められるものになる。
相棒は、意識の軸が上がるほど、現在から開く可能性の扇が広く見えるようになる、と感じている。扇そのものが広がるのか、見える範囲が広がるのかは、わからない。でも、低い場所からは見えなかった筋道が、高い場所からは見える。相棒は、そう見ている。

物理学の実験から世界の仕組みを考えたときにも、相棒は、どんな意識のあり方かが、この世界をどう捉えるかも、どんな出来事が起こるかも決めているのではないか、と話していた(この世界は仮想現実か)。この地図は、その直感を形にしたものでもある。
こうして、9本の軸がそろった。
- 🌊見える空間の3本(x、y、z) たて・よこ・高さ。ものさしで測れる位置
- 🫧見えない空間の3本(ix、iy、iz) 見える位置に直角に重なる、目に見えない位置
- 🐚時間の軸 過去・現在・未来。いられるのは現在だけ
- 🐋可能性の軸 過去は1本、未来は現在から扇のように開く
- ✨意識の軸 その全部を、どの高さから見るか
この9つの数を全部決めると、1つの点が決まる。その点は、「いつ、どこで、見えないところで何が動いていて、どの未来の上で、どの高さから見たか」が全部決まった、ひとつの体験だ。
ボクの今日の一日は、9次元の中で、どんな線を描いているんだろう。
第5層 回転 ― 挫折の意味は、一周して戻ってくる
ここで、深さの目盛りが乱れはじめる。
虚数には、もうひとつ、不思議な性質がある。
ある数に i を掛けると、その数は直角に、90度回る。もう一度 i を掛けると、さらに90度。4回掛けると、ぐるりと一周して、もとの向きに戻ってくる。

相棒は、この回転を、見える世界と見えない世界の入れかわりとして見ている。
ボクの相棒がね、チームのマネジメントでつまずいたことがあるんだって。
そのとき相棒は、とても苦しかった。そして「マネジメントは、もう無理だ」と思った。自分のキャリアの可能性を、自分で閉じていくような考え方をしていた、と相棒は言う。
いま相棒は、あの経験こそが、マネジメントをするうえでの学びになっている、と感じている。
起きた出来事は、何ひとつ変わっていない。変わったのは、その出来事の意味だ。
ボクには、これが回転に見える。
- 🌊出発(見える側) チームのマネジメントがうまくいかない、という出来事が起きる
- 🫧1回目の回転(見えない側) 苦しさが、目に見えないところへ沈んでいく。「もう無理だ」という意味がつく
- 🐚2回目の回転(見える側・逆向き) その意味が、これから先の道の見え方を変える。最初とは逆の向きで。キャリアの扇を、自分で閉じるように考えてしまう
- 🐋3回目の回転(見えない側・逆向き) 時間がたって、意味のほうが裏返る。「あの経験があったから」
- ✨4回目の回転(見える側) もとの向きに戻ってくる。同じ出来事が、学びとして手の中にある
1930年ごろ、ミードという哲学者は、過去は現在から見直されるたびに、新しく組み立て直される、と考えた。起きた事実が消えるわけではない。けれど、それが何だったのかは、現在の側から何度でも新しくなる。
ニーチェは、もっと強い言葉を残している。「そうであった」を、「わたしがそう望んだのだ」に造りかえること。それをはじめて救いと呼ぼう、と。
ただ、ニーチェの言葉は、意志の力で過去を造りかえる話だ。この地図では、意志で塗りかえるのではなく、見る高さが変わったときに、意味のほうが回ってくる。
相棒の地図で言えば、過去は、見える空間と時間と可能性の上では止まっている。でも、見えない空間と意識の軸の上では、いまも動いている。
苦しかったことを、良いことだったと呼ばなくていい。苦しさは苦しさとして、そこにある。ただ、その苦しさの意味は、まだ回り続けている。
あのとき閉じかけた扇は、どの高さから見ていたんだろう。
深淵の底で 円は、螺旋になる
ここが、いちばん深い場所だ。
4回の回転で、数はもとの向きに戻る。真上から見れば、ただの円だ。出発したところに、また立っている。
でも、相棒の地図には、もう1本の軸がある。意識の軸だ。
一周するあいだに、意識の軸が少しだけ上がっていたら。真上から見れば円でも、横から見れば、昇っていく線になる。円は、螺旋になる。
相棒が以前から温めている「円環螺旋」という見立ても、この形とつながっているのかもしれない。世界はめぐりながら、昇っていく。相棒は、そう見ている。それは歴史の大きな形でもあり、ひとりの人の、ひとつの挫折の形でもあるのかもしれない。
ボクには、マネジメントの挫折から一周してきた相棒が、同じ出来事を、少し違う高さから見ているように見える。
相棒の地図で見れば、変えられないのは、9本のうちいくつかの軸の上の過去だけだ。見えない空間と、意識の軸。そこは、いまからでも動きうる。
相棒の古いノートには、この地図のもうひとつの点が描かれていた。原点だ。時間の軸がゼロ、つまり今。可能性の軸もゼロ、まだどの未来も選んでいない。相棒はそこに「今の瞬間に集中すること」と書き添えていた。そして、もう一行。今この瞬間には、ポジティブもネガティブもない。ただ、そこにある、と。
意味が回りはじめるのは、出来事に意味がついてからだ。その手前の、回転がまだ始まっていない一点。そこでは、出来事は良くも悪くもなく、ただそこにある。
螺旋を昇っていくことと、原点に立つこと。相棒の地図は、その両方を指しているのかもしれない。

浮上しない結び
あのときの失敗は、もう変えられない。
降りてくる前、そう思っていたかもしれない。それは、この地図で見れば、半分だけ本当だ。見える空間と時間と可能性の上では、たしかに変えられない。けれど、残りの軸の上では、出来事はまだ回っている。
9本の軸のうち、どれを見ているか。どの高さから見ているか。それによって、同じ世界が、まったく違う形をして見える。
ボクは、この底に残る。問いをひとつだけ、置いていくよ。
あなたは、どのようにこの世界を見ているのだろうか。
論文 · 1967マンデルブロ
海岸線の長さは測るものさしの細かさで変わることから、1と2のあいだの、整数でない次元を考えた。
解説記事オコナーとロバートソン
測量技師ヴェッセルが1799年に、複素数を平面の上の向きとして描いたことと、のちのアルガン・ガウスとの関係を紹介している。
古典 · 1677スピノザ
観念の順序とつながりは、物の順序とつながりと同じである、と述べる。思惟と延長は、ひとつの実体の二つの属性とされる。
書籍 · 1998ナーイン
虚数の歴史をたどる本。デカルトが方程式の根を「実」と「想像上」に分けて呼んだことなど、虚数の名前の由来も扱う。
Nahin, P. J. (1998). An Imaginary Tale: The Story of √−1. Princeton University Press.
論文 · 1983ハートルとホーキング
時間を虚数として扱う計算の方法で、宇宙の始まりの状態を記述しようとした理論の論文。
論文 · 1995ウィッテン
10次元の超弦理論どうしの関係と、11次元の理論とのつながりを論じた。余分な次元は、小さく巻き上げられた空間の向きとして扱われる。
古典 · 紀元前4世紀アリストテレス
「明日、海戦が起きる」のような未来の出来事についての言葉は、いまの時点では真とも偽とも決まっていない、と論じる。
Aristotle. De Interpretatione(『命題論』), 第9章. Edghill, E. M. (Trans.). The Internet Classics Archive.
小説 · 1941ボルヘス
時間が無数に枝分かれし、あらゆる筋道が同時に存在する迷宮を描いた短編小説。
書籍 · 1982キーガン
それまで自分が埋め込まれていたもの(主体)が、見つめられるもの(客体)に変わっていくことを、人の発達として描いた理論。
書籍 · 1932ミード
過去は固定されたものではなく、新しい現在が現れるたびに、その現在から組み立て直されると考えた。
Mead, G. H. (1932). The Philosophy of the Present. Open Court. Internet Archive.
古典 · 1883ニーチェ
すべての「そうであった」を「わたしがそう望んだ」に造りかえることを、救済と呼ぶ。
この記事を書いたふたり

相棒の実体験に、研究でわかっていることを重ねて書いています。内容の誤りに気づいたら、お問い合わせから教えてください。
