仕組みは、いつか直る。でも、一度揺らいだ信頼は、元に戻るのだろうか。大きなサイバー攻撃を受けたエストニアのその後には、ひとつの答えのかけらがあるんだ。壊れたあとの信頼は、前の信頼とは高さが違うのかもしれない。エピクテトス、金継ぎ、タレブとともに、連作「見えない戦争」の完結編で、壊れた信頼を結び直す底へ降りていこう。
3000mの、その下へ
仕組みは、いつか直る。でも、一度揺らいだ信頼は、元に戻るのだろうか。
流出のお詫び、止まったサービス、相次ぐ攻撃のニュース。スマホで決済をして、銀行のアプリを開く。ふと、これが全部止まった日のことを考える。電気が止まったら。通信が切れたら。そのとき、手元に何が残るんだろう。
ボクはホエール坊や。深海3000mに住む、小さな子鯨だ。ふだんはここから、人の働く世界をそっとのぞいている。
ここから先は、深淵だ。ときどきボクは、光の届かないこの場所まで降りて、人間の奥にあるものを見つめにくる。
ボクには、人間の相棒がいる。このブログを一緒に書いている、人と組織のことを仕事にしている人だ。相棒は、この数週間のニュースの裏で、国どうしの見えない戦争が起きているんじゃないかと想像している。公式には、そうは説明されていないけれど。
その話を聞いてから、ボクは深淵で、続きものの夢を見てきた。相棒が選んだテーマで AI が書いた物語で、出てくる会社も人も、実在しない。
これは、連作「見えない戦争」の三本目で、最後の一本だ。通している言葉は「信頼」。夢の中で、ひとつの国は、見えない攻撃を受けた。誰が守っているのかも見えないまま、人々は銀行に押し寄せ、預けていたものを一斉に引き出した(そこまでの夢は、一本目と二本目に書いた)。今日は、そのあとの夢だ。
壊れた信頼は、前より強くなれるのか。今日は、その奥へ降りてみる。
壊れたものは、元に戻るのかな。それとも、戻らないまま、別の形になるのかな。
第1層 休戦協定のない戦争
夢は、数週間あとから始まった。
国の緊急の措置と、海外の国々との共同の見張りで、仕組みの全部が崩れることは、まぬがれていた。けれど、それは勝利ではなかった。
夜番のアナリストは、監視の部屋の窓から、夜の街を見下ろしていた。かつては安心のしるしだった街の灯りが、いまは、薄いガラス細工のように見える。
「新しい警報です。今度は海外の送電網です」
若いエンジニアの声は、もう震えていなかった。この数週間で、戦時下という日常に、慣れてしまっていた。
むかしの戦争には、始まりの宣言があり、終わりの協定があった。けれど、この戦争に、休戦はない。攻撃者は名前を変え、手口を変え、どこかで次の欠陥を探しつづける。
エンジニアが、ふと手を止めた。
「僕たち、いつか勝てるんでしょうか」
アナリストは、しばらく黙ってから答えた。
「勝つとか負けるとかじゃない。今日を無事にやり過ごして、明日の朝も街の灯りがともるように、つかの間の平和を、一日でも長く延ばすことだ」
これは夢だ。そして、ここからが現実だ。
この数週間、攻撃と流出の知らせが続いた。11月2日の防災庁の発足に合わせて、政府は食べ物や水の備蓄を呼びかける方針も示していた。公式には、大きな地震への備えだ。
備蓄の呼びかけが、サイバーの戦争と関係があるとは、公式には言われていない。それでも相棒は、続くニュースの奥に、見えない戦争の気配を感じている。ボクも、夢の中の灯りを思い出す。
二千年近く前、奴隷の身から哲学者になったエピクテトスは、物事を、まず二つに分けた。自分の力の及ぶものと、及ばないものとに。
電気が止まるかどうか。通信が切れるかどうか。攻撃者が次にどこを狙うか。それは、ボクらの力の及ばないものだ。エピクテトスなら、手元の水さえ「及ばないもの」に数えるだろう。彼が及ぶものとしたのは、心の向け方だけだった。
それでも、何に備えようと決めるか、その決め方は、ボクらの側にある。備えようと決めることは、ボクらの手に残された、数少ない「及ぶほう」なのかもしれない。
第2層 仕組みは直っても
夢の街は、ゆっくりと日常を取り戻していった。
電気がつき、決済がつながり、店の棚に品物が戻った。それでも、人々は以前のようには、手元の画面を信じなくなっていた。カードの残高を、毎晩たしかめる人が増えた。銀行の通知が来るたびに、少しだけ指が止まる。
仕組みは直った。けれど、仕組みを信じる気持ちは、元の形には戻らなかった。
夢の政府は、人々が銀行に押し寄せた、あの朝に何が起きていたのかを、少しずつ明らかにしていった。どこが破られ、何が間に合わず、何を守れたのか。守れなかったことも、隠さずに並べた。
すぐに信頼が戻ったわけではない。けれど、何もかも「大丈夫です」と繰り返していたあの朝より、人々の顔は、いくらか落ち着いて見えた。見えないままの守り手より、失敗を見せた守り手のほうが、信じやすいこともあるのかもしれない、とボクは夢の中で思った。
これは夢だ。けれど、損なわれた信頼がどう戻るかは、現実の研究でも調べられてきた。
信頼を損なう疑いをかけられたとき、謝るのと否定するのと、どちらが信頼を取り戻せるかを調べた実験がある。能力のミスを疑われたときは、謝るほうが効いた。誠実さを疑われたときは、否定するほうが効いた。信頼の直し方は、損なわれ方によって違う。
サービスで失敗が起きても、うまく立て直せば、失敗がなかった客より満足が高くなることがある。けれど、多くの研究をまとめると、また利用したい、人に勧めたいという気持ちまでは、失敗がなかった客を上回らなかった。
直す道はある。けれど、直せば前より強くなる、とまでは、研究は言ってくれない。
夢の街で、銀行の通知に指が止まった、あの一瞬。あれは、直したからといって、すぐには消えないのだと思う。
日本には、金継ぎという直し方がある。割れた器を、漆でつなぎ、継ぎ目を金で彩る。割れたあとを隠さない。器が割れたことを、器の一部として残しているように、ボクには見える。
金継ぎした器が、割れる前より丈夫になるわけではない。それでも、割れたことを忘れないまま使いつづける、という継ぎ方は、壊れた信頼の直し方に、どこか似ている気がする。

第3層 攻撃を受けた国に、守りの拠点ができた
ここで、夢から少し離れて、現実の国の話をしたい。
2007年の春、エストニアという小さな国が、大きなサイバー攻撃を受けた。ソ連時代の記念碑を移したことをきっかけに、政府や銀行などのサイトが、次々につながらなくなった。電子政府を進めていた国の仕組みが、大きく揺らいだ。誰が仕掛けたのかには疑いの声があがったけれど、決め手となる証拠は示されなかった。
けれど、話はそこで終わらなかった。翌2008年、エストニアの呼びかけで、その首都タリンに、NATO のサイバー防衛の研究拠点ができた。攻撃を受けた国が、守りの知恵を集める場所になった。
ここから先は、あの物語にはない。ボクが深淵で見た、夢の続きだ。
もう一度、大きな停電が来た夜。夢の街の人々は、前のようには列に並ばなかった。ある家は、備えていた水を、隣の家に分けた。マンションの掲示板には、紙に書いた連絡網が貼られていた。古いラジオを持っている人のところに、人が集まった。
画面の向こうの仕組みへの信頼は、一度、崩れていた。けれど、手の届くところに、別の信頼が残っていた。隣に住む人。紙の上の名前。自分の手で備えた水。

監視の部屋で、若いエンジニアが言った。
「みんな、前より落ち着いてますね」
アナリストは、うなずいた。
「一度、壊れるのを見たからだろう」
思想家のタレブは、揺さぶられて壊れるもの、揺さぶられても変わらないもの、揺さぶられて強くなるものとを分けた。最後のものを、彼は「反脆弱」と呼んだ。彼が考えていたのは、市場や生き物のような仕組みのことで、人と人との信頼のことではない。ボクはその言葉を、ここで少しだけ借りる。
エストニアも、夢の街も、揺さぶられたことで、揺さぶられる前には持っていなかった何かを手にしたように、ボクには見える。
深淵の底で 螺旋の一段
ここまで降りてきて、相棒の見方を、ようやく言葉にできる気がする。
相棒は、こう考えている。世界は、崩れて、結び直されて、また崩れる。その繰り返しの中で、同じ場所に戻ってきたように見えて、じつは一段だけ上にいる。円のようでいて、じつは螺旋なのだ、と(その見方は、円環螺旋に書いた)。
壊れる前の信頼と、壊れたあとの信頼は、上から見ると、同じ場所にある。どちらも、仕組みを信じて、毎日を回している。けれど、横から見ると、高さが違うように、ボクには見える。
壊れる前の信頼は、「何も起きない明日」に、すべてを預けきった信頼だった。顔も知らない守り手に、「誰かが守ってくれている」と任せきった信頼だった。
壊れたあとの信頼は、壊れうると知ったうえで、それでも預ける信頼だ。全部を疑うのでも、全部を預けるのでもない。預けたうえで、その一部を、自分の手に戻しておく。水を何本か。紙の連絡網を一枚。隣の人の顔を、ひとつ。
ボクには、それが「備え」の正体に思える。備えるとは、仕組みに預けきっていた信頼の一部を、自分の手に戻しておくことなのかもしれない。
振り返ると、三つの夢は、信頼の三つの段だった。一本目の夢で、ボクらは、何も起きない明日を、疑いもせずに信じていた。二本目の夢で、誰かが守ってくれている、と思っていた。そして三本目の夢で、その信頼が崩れたあと、人々は、手の届くところから、信頼を結び直しはじめた。
螺旋を横から見れば、三つの段は、同じ「信じる」という場所を、少しずつ高さを変えて回っている。
前より強い、というのは、もう壊れない、ということではないのだと思う。タレブの言葉でいえば、揺さぶられても変わらないことではなく、揺さぶられたあとで結び直せることだ。研究は、それを約束してはくれない。それでも、ボクにはそう見える。
夢の戦争に、休戦はなかった。それでも、相棒の見方でいえば、螺旋は一段ずつ、上へ巻いていく。
底に残る問い
仕組みは、いつか直る。でも、一度揺らいだ信頼は、元に戻るのだろうか。
降りてくる前は、ボクにも、壊れたものは元どおりに直すしかないと思えていた。けれど深淵で見た夢には、休戦のない戦争と、元には戻らない信頼と、隣の家に分けられた水があった。
壊れることは、終わりではないのかもしれない。結び直したとき、ボクらは、気づかないうちに螺旋を一段のぼっているのかもしれない。
三つの夢は、ここで終わる。ボクは、この底に残る。問いをひとつだけ、置いていくよ。
壊れたあとで、あなたは何を信じ直すだろう
連作「見えない戦争」
- サイバー戦争は、もう始まっている?
- 別班は実在する?
- 壊れた信頼は、前より強くなれるのか(この記事)
世界が崩れて結び直される見方は、円環螺旋 ― 世界はめぐり、昇り、そして始まりへ還るにある。お金を信じる仕組みが消えた世界は、銀行が消えた世界で、ボクらは何を信じるのかで妄想した。
報道 · 2026ギズモード・ジャパン
防災相が11月2日の防災庁発足に合わせて、最低3日分・できれば1週間分の備蓄を呼びかける方針を示したこと、目安は防災白書と同じで特定の災害やサイバー攻撃の切迫は説明されていないことを伝えた。
平木昌宏 (2026, October 29).「政府が『3日分の備蓄』を緊急要請へ。サイバー攻撃と関係あるの?何があった?」. ギズモード・ジャパン.
書籍(古典) · 2世紀エピクテトス
物事には、自分の力の及ぶもの(考え・意欲・欲求など)と及ばないもの(体・財産・評判など)があると分け、及ぶものに心を向けよと説いた。
Epictetus. The Enchiridion, 1. (G. Long, Trans.).(邦訳『エピクテトス 人生談義』下, 國方栄二訳, 岩波文庫 所収「要録」)
論文(実験) · 2004キムほか
能力にかかわる違反の疑いでは謝罪が、誠実さにかかわる違反の疑いでは否認が、信頼をよく回復させた。回復のあと元より強くなるかは扱っていない。
メタ分析 · 2007デ・マトスほか
失敗を立て直された客と失敗がなかった客を比べると、満足度では前者が上回る効果が見られたが、再購入の意図・口コミ・企業イメージでは有意な差は見られなかった。
論文(工芸史) · 2016ギデオン・クーレマンス
漆と金銀で割れた器を継ぐ金継ぎを、茶の湯などの歴史と文化の条件から論じた。
報道 · 2009NBC News
2007年、ソ連時代の記念碑の移設をきっかけに、エストニアの政府・銀行などのサイトが大規模なサイバー攻撃を受けたこと、ロシアの関与が指摘されたが決定的な証拠は示されていないことを伝えた。
NBC News (2009, July 9). A look at Estonia’s cyber attack in 2007.
機関の紹介 · 2008NATO サイバー防衛協力センター
エストニアの発案により、2008年5月14日に設立された。エストニアのタリンに置かれている。
NATO Cooperative Cyber Defence Centre of Excellence. About us.
書籍(論考) · 2012ナシーム・ニコラス・タレブ
揺さぶりやストレスで壊れるものを「脆い」、変わらないものを「頑健」、かえって強くなるものを「反脆い」と呼び分けた。対象は市場・生物・制度などの仕組み。
タレブ, N. N. (2017).『反脆弱性:不確実な世界を生き延びる唯一の考え方』上・下, 望月衛 監訳, 千葉敏生 訳, ダイヤモンド社.(原著 2012)
この記事を書いたふたり

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