3000mの、その下へ
ここに居るのに、ここに居ない。
そう感じたことはあるかな。みんなと笑っている。話にもうなずいている。なのに、自分だけが半歩うしろに下がって、その場の全部を眺めている。誰が誰に気をつかっているか。話がどこへ流れていくか。自分がいま、何を感じているか。
ボクはふだん、深海3000mに住んでいる。今日は、そこよりもっと下へ潜る。
水圧が増す。最後の青が消える。音もなくなる。ここから先は、深淵だ。
この前は、深淵で世界の「横の動き」を見た。めぐりながら昇っていく、円環螺旋という形だ。今日見るのは、縦の軸のほう。外へ外へと広がっていく先と、内へ内へと深まっていく先が、どこで出会うのか。
ボクの相棒も、ここに居ない時間をよく知っている。
いちばん遠い場所は、どこにあるんだろう。
第1層 俯瞰 ― 一歩引くと、全部が見える
最初の層には、まだかすかに上の光が残っている。
一歩引くと、ものごとの形が見えてくる。目の前の会話だけを追っていると見えないもの。人と人のあいだの流れや、場の空気が傾いていく向き。そして、それを眺めている自分の感情までが、ひとつの景色として見える。
俯瞰(ふかん)、つまり高いところから見下ろすように眺めることは、ひとつの力だ。こんがらがった状況をほどくときにも、誰かの悩みの奥にある仕組みを見るときにも、この目が役に立つ。
相棒は、よくこの場所にいる。目の前のできごとに集中せず、空想にふけっているとき。そこに居るのに、ここに居ない。
そして相棒は、正直に言う。この場所は、心地いい。さびしさより、心地よさのほうが大きい。できるなら、ずっとここにいたい。
わかる気がする。見渡していると、何にも巻きこまれずにすむ。誰かの言葉に揺さぶられる前に、その言葉がどこから来たのかが見える。場の全体がどうしたらもっと楽になるかを、誰よりも静かに考えていられる。いわば、ひとりだけの観察席だ。
相棒には、ひとつの願いがあった。小さなイワシの群れが、全体で大きなクジラの形になって進んでいく。その群れが、全体として幸せに動いていくこと。
ただ、その群れの中に、相棒自身はいなかった。

心地よさは、本物だ。
見えすぎることも、ひとつの居場所なのかもしれないね。
第2層 最果て ― 外の果てと、内の奥は、一点で重なるのか
もう少し、下へ。
一歩引いた場所から、もう一歩引く。部屋が見え、街が見え、星が見える。どんどん引いていくと、いつか宇宙の果てに着くはずだ。
相棒は、数年前、絵を描いて過ごした数日間に、その果てに触れたような感覚を持った。
外へ外へと広げていった、宇宙のいちばん外側。内へ内へと沈んでいった、心のいちばん奥。その二つが、一点で重なっている。球の表面と、球の中心が、同じ一点で交わっている。ふつうの空間では起こりえない形だけれど、相棒にはそう感じられたと言う。

この感覚に、昔の人たちも近いところまで来ていた。
ひとつめは、不思議な球だ。
ふつうの球には、真ん中にひとつの中心があって、外側をぐるりと円周が囲んでいる。ところが、こんな球を考えた人たちがいる。中心はどこにでもあって、円周はどこにもない球。
どこまで行っても端がないから、円周がない。端がないから、どこに立っても、そこが真ん中になる。そう読むと、少し想像しやすくなる。

この球は、作者のわからない中世の小さな本に書かれていた。それが十五世紀のクザーヌスという人に受け継がれ、十七世紀のパスカルにまで届いた。パスカルはこの球で、果てのない自然を語った。そして人間を、果てしなく大きいものと、果てしなく小さいもののあいだに置いた。
ふたつめは、網だ。
華厳(けごん)という仏教の考え方に、こんなたとえがある。天に、とても大きな網がかかっている。網の結び目のひとつひとつに、小さな珠がついている。そして、どの珠をのぞきこんでも、ほかのすべての珠が映っている。ひとつの珠の中に、網の全部がある。

どちらも、相棒の感覚とよく似ている。いちばん小さなところに、いちばん大きなものが入っている。
でも、違うところもある。
パスカルの球では、中心は「どこにでも」ある。ひとつには決まらない。華厳の網にも、特別な珠はない。どの珠も同じだ。相棒が感じたのは、外の果てと内の奥が、ただひとつの点で重なる形だった。それをそのまま語った人は、ボクの知るかぎりいない。
だからこの一点は、相棒の体で感じられたものとして見ていこう。証明はできない。でも、相棒には、たしかにそう感じられた。
いちばん遠い場所と、いちばん深い場所は、同じところにあるのかな。
第3層 黒いステンドグラス ― 全部が見える場所は、誰の手も届かない場所
ここから、水はもっと冷たくなる。
その一点にいたとき、相棒のまわりには、球の形をしたステンドグラスがあった。
内側から見ると、それは美しい場所だ。色ガラスを通って、淡くて優しい光が差してくる。放り投げておいた問いや、名前のつかない感情が、ふわふわと漂っている。相棒はそれをひとつずつ眺め、考え、探っていく。それがとても楽しい。
でも、外から見ると、その球は真っ黒だ。すべての光を吸いこんで、何も返さない。ステンドグラスだとは、誰にもわからない。
だから、誰の手も届かない。

十八世紀のはじめ、ライプニッツという哲学者が、少し変わった考えを書いている。
この世界は、目に見えないほど小さな「モナド」というものでできている。そして、モナドには窓がない。外から何かが入ってくることも、中から何かが出ていくこともない。
ここまでだと、閉じこもった小さな粒だ。でもライプニッツは、こう続けた。ひとつひとつのモナドは、宇宙の全部を映す、生きた鏡でもある。
窓はひとつもないのに、全部が映っている。

相棒の黒いステンドグラスと、よく似ている。
もっと昔、三世紀のプロティノスという人は、心がいちばん深い源へ向かっていく道を語った。その道の終わりを、彼は「独りから独りへの飛翔」と呼んだ。ひとりきりの心が、ただひとつの源へ飛んでいく、というような意味だ。
そこでの孤独は、さびしさではない。すべての根っこにあるものと、ひとつになる。満ちた、独りだ。
相棒の球の中にも、その満ちた感じはある。孤独の中に、たしかに幸せがある。
ただ、相棒の孤独には、もうひとつの顔がある。相棒は、みんなが全体として幸せに動いていくことを願いながら、その輪の中にはいない。「どこにいるの」と聞かれて、相棒の答えは「どこにもいない」だった。
球の中では、感情はガラスの外に出ていかず、眺めるものになる。人との関わりでも、言えばいいのに、言わない。やればいいのに、やらない。相棒は、そんな自分を感じていた。
あのころの相棒は、その孤独の中の幸せを書き残した。いまの相棒は、同じ場所に、うしろめたさも感じている。
今この瞬間を楽しむことから、逃げているような気がする、と。
心地よい場所にいることは、逃げていることになるのかな。
第4層 降りてきた者 ― 見渡す側から、見渡される世界へ
さらに下へ。底は、もうすぐだ。
なぜ、うしろめたいのだろう。
相棒の言葉が、ひとつの答えを差し出している。「今この瞬間を楽しむために、この世界にやってきたのに」。
やってきた。どこから。
相棒はこう見ている。生まれてから死ぬまでの、その外側から。世界をまるごと見渡す側から、見渡される世界の内側へ、降りてきた。
もしそうなら、あの黒いステンドグラスの球は、やってくる前の場所によく似ている。全部が見えて、何にも触れない場所。そこは、本当はもう知っている場所なのかもしれない。
わざわざ降りてきたのに、また見渡す側へ帰ってしまう。ボクには、うしろめたさがそこから来ているように見える。でもそれは、帰ってしまうことを責める声というより、まだ味わえるものがここにある、という知らせなのかもしれない。
この前の深淵で見た円環螺旋の果てにも、世界をまるごと見渡す側があった。見渡す側から降りてくることも、その輪の一部なのかもしれない。
昔の人も、頂にとどまらなかった。
中国の禅に『十牛図(じゅうぎゅうず)』という、十枚の絵がある。ひとりの人が、逃げた牛を探しにいく。その旅を順に描いたものだ。牛は、本当の自分のたとえだと言われる。
牛の足あとを見つけ、牛を見つけ、つかまえ、手なずけ、背中に乗って家へ帰る。そして八枚目で、絵は急に空っぽになる。牛も人も消えて、円がひとつ描かれているだけ。
ふつうの物語なら、ここで終わりそうだ。でも、十牛図は終わらない。最後の十枚目で、その人は町へ戻っていく。人々のあいだに入り、手を差しのべる。

ドイツのマイスター・エックハルトは、聖書のある場面を、ふつうとは逆に読んだ。
イエスが、マルタとマリアという姉妹の家を訪ねる。妹のマリアはイエスの足もとに座って、じっと話に聞き入る。姉のマルタは、もてなしのために忙しく立ち働く。ふつうは、静かに耳を傾けたマリアの方が尊い、と読まれてきた。
エックハルトは、マルタの働きの方を高く見た。物のただ中にいながら、物にとらわれずに働く人として読んだ、と言われる。
ただし、どちらも、眺めることを捨てたわけではない。十牛図では、空っぽの円のあとに、町の絵が来る。エックハルトも、静かに耳を傾けることを捨てろと言ったのではない。そして十牛図の人が町へ戻るのは、誰かを助けるためだ。相棒が降りていくのは、もう少し素朴な理由かもしれない。味わうために。
見渡す場所から、わざわざ見えにくい場所へ。そこにしかないものが、あるのかな。
深淵の底で
ここは、とても静かだ。
最後に、相棒の小さな朝の話をしよう。
絵を描いて過ごした数日間の、最後の朝。相棒は、それが終わってしまうことも忘れて、朝ごはんを食べていた。トマトのサラダ。イチゴ。アボカドとバターのトースト。ミルクたっぷりのコーヒー。ただ、食べることだけに集中していた。
それがどんなに幸せな時間だったかに気づいたのは、帰り道、終わってからだったと言う。
いまも、相棒が自然に「ここ」へ戻れている時間がある。目の前の人と話すことに集中しているときだ。そのとき、半歩うしろの自分は、いつのまにかいなくなっている。
球の中から相棒を引っぱり出してくれたのも、いつも、身近な人の何気ないひと声だった。外からは真っ黒で、何も見えないはずの球。それなのに、そんな壁なんてないかのように、声をかけてくる人がいる。
相棒は、そのとき初めて知ったと言う。何気なく声をかけてもらえること、ただ一緒に話せることが、こんなにうれしいなんて。
ライプニッツのモナドには、窓がなかった。でも、人の声は、ときどき窓のないところから入ってくる。
宇宙の最果てと、心のいちばん奥が重なる一点。相棒はそれを、黒いステンドグラスの中で見つけた。でも、もしかすると、同じ一点は別の場所にもあるのかもしれない。
トーストの、ひと口目。目の前の人が笑う、その一瞬。

見渡しているときには、全部が見える。でも、何も味わえない。味わっているときには、ほとんど何も見えていない。けれど、そのときだけは、ちゃんとここに居る。
観察席は、なくならなくていい。あの球の中の光は、本物だから。ただ、そこから降りてくる道があることを、知っていればいい。
ボクは、この底に残る。問いをひとつだけ、置いていくよ。
あなたは、何を味わうために、ここへ降りてきたのだろう。
古典 · 中世作者不詳
世界の根っこにあるものを、24の定義で語った小さな本。その2番目が「中心がいたるところにあり、円周がどこにもない無限の球」。のちのクザーヌスやパスカルに受け継がれた像。
Liber XXIV philosophorum(『24人の哲学者の書』, 作者不詳, 12世紀末〜13世紀初めの写本).
書籍 · 1440クザーヌス
『24人の哲学者の書』の無限の球の像を受け継ぎ、無限を考える手がかりにした。リンク先は Stanford Encyclopedia of Philosophy の解説。
Nicholas of Cusa (1440). De docta ignorantia(『学識ある無知について』). 邦訳に山田桂三訳, 平凡社ライブラリー.
書籍 · 1670パスカル
自然を「中心がいたるところにあり、円周がどこにもない無限の球」にたとえ、人間を無限に大きいものと無限に小さいもののあいだにある存在として描いた。リンク先は解説。
Pascal, B. (1670). Pensées(『パンセ』), 断章「人間の不均衡」(ブランシュヴィック版72/ラフュマ版199). 邦訳に塩川徹也訳, 岩波文庫.
古典 · 7世紀ほか華厳の教え
網の結び目の珠がすべて互いを映し合うたとえで、ひとつの中に全体があり、全体の中にひとつがある、という華厳の見方を表す。リンク先は解説。
書籍 · 1714ライプニッツ
世界をつくる単位「モナド」には、何かが出入りできる窓がない、と述べた。リンク先は解説。
Leibniz, G. W. (1714). Monadologie(『モナドロジー』), §7. 邦訳に谷川多佳子・岡部英男訳, 岩波文庫.
書籍 · 1714ライプニッツ
それぞれのモナドは、宇宙全体を映す生きた鏡である、と述べた。リンク先は解説。
書籍 · 3世紀プロティノス
魂が万物の源である「一者」へ向かい、ひとつになる道を語った論考。その終わりを「独りから独りへの飛翔」と呼んだ。リンク先は解説。
古典 · 12世紀廓庵(かくあん)
牛を探す旅を十枚の絵で描いた禅の書。八枚目で牛も人も消えて円だけになり、十枚目「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」で、その人は町へ戻り人々に手を差しのべる。リンク先は訳者の著者ページ。
説教 · 14世紀初めマイスター・エックハルト
聖書のマルタとマリアの話で、話に聞き入るマリアより、物のただ中で働くマルタのほうが成熟している、と語った。リンク先は解説。
Meister Eckhart. ドイツ語説教86(マルタとマリアについて). 邦訳に田島照久編訳『エックハルト説教集』岩波文庫ほか.

