3000mの、その下へ
あの人に、本当は何を思われているんだろう。
話しかけようとして、やめた。そういう夜がある。言葉はもう喉まで来ている。でも、返ってくるかもしれない冷たい顔を思い浮かべると、足が止まる。そして、何もなかったことにして眠る。
ボクのすみかは、深海3000m。今日は、そこからさらに下へ向かう。
水圧が増す。人の声が、遠くなる。ここから先は、深淵だ。
この前の深淵では、宇宙の果てまで見渡せる場所から、目の前の世界へ降りてくる道を見た。でも、降りてきた先には、人がいる。人がいれば、恐れがある。
今日は、その恐れの底まで降りてみる。道づれは、一冊の本。エーリッヒ・フロムの『愛するということ』。
ボクの相棒も、この恐れをよく知っている。
社会に出て三年ほどたったころ、相棒のまわりには後輩や一緒に働く人が増えていった。話がうまく伝わらない。場をうまく回せない。チームをうまくまとめられない。失敗が重なるうちに、相棒は自信をなくしていった。そして、人と関わること、言葉を交わすことそのものに、恐れを感じるようになった。
このままでいいんだろうか。そんな停滞感と孤独のなかで、何かを変えたいと思った相棒は、コーチングを学びはじめた。その途中で出会ったのが、この本だった。相棒はそこに、「恐れを受け入れ、勇気を持って越えていく」という、迷っても揺れない自分の軸を見つけたと感じている。
人に近づくのは、どうしてこんなに怖いんだろう。
第1層 分離 ― 恐れの根は、ひとりであること
最初の層。上の青が、まだかすかに残っている。
フロムは、愛の話を、ひとりであることから始める。
人は、自分が自分であることを知っている。だから、自分がほかの誰とも切り離されていることも、知ってしまう。この切り離されている感覚、分離を、フロムは人間のいちばん深い不安だと考えた。
人は、その壁を越えたい。だから、ほかの人と結びつこうとする。
ただし、結びつき方には本物と偽物がある。みんなと同じ服を着て、同じことを言って、群れにまぎれる。何かに夢中になって、ひとりであることを一時的に忘れる。どちらも壁が消えたように感じるけれど、壁はそのまま残っている。フロムは十五年前の本『自由からの逃走』で、孤独を恐れた人が服従や同調へ逃げていくさまを描いていた。
では、本物の結びつきとは何か。フロムの答えは、ひとつの逆説だ。成熟した愛では、ふたりがひとつになり、しかもふたりでありつづける。相手に溶けて自分を消すのでも、自分の殻に閉じこもるのでもない。自分のまま、壁を越える。

相棒は、かつてこの一節を読みながら、こう書きとめていた。壁を壊しにいけば、いまの落ち着いた関係は揺らぐかもしれない。その揺らぎを引き受ける覚悟を持って、それでも壁を壊しにいく。それが成熟した愛なのではないか、と。
フロムの言う分離の不安は、生きていることそのものに根ざした不安で、職場や家庭の「人間関係が怖い」と同じものではない。それでもボクには、この二つが根っこのどこかでつながっているように見える。
人に近づくのが怖いのは、なぜなんだろう。
壁の向こうに行きたい。でも、壁を壊すのは怖い。
第2層 愛されたい、の奥 ― 本当に怖いのは、愛すること
もう少し下へ。光が細くなる。
多くの人が愛を取り違えている、とフロムは言う。その一つ目が、愛を「どうすれば愛されるか」の問題だと思っていることだ。好かれるように振る舞う。嫌われないように気をつかう。でも、自分から愛する力のことは、あまり問わない。
そして、本の中に、こんな一節がある。
人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、本当は無意識の中で愛することを恐れているのだ。
— エーリッヒ・フロム『愛するということ』(鈴木晶訳)
ボクの相棒が、チームをまとめていたころの話をしよう。
メンバーが何を感じているのか。何が問題になっているのか。それに、向き合えなかった。メンバーの不満が、自分に向けられているように感じたからだ。話しに行けば、責められる気がした。だから、行けなかった。
あとから振り返ると、相棒にはひとつのことが見えてくる。あのとき、怖さの真ん中にいたのは、メンバーではなかった。「責められる自分」だった。
愛されないことが怖い。嫌われるのが怖い。でもその奥には、自分から相手のほうへ出ていくことへの恐れが、静かに座っていたのかもしれない。
怖さの真ん中にいたのは、相手じゃなくて、自分だったのかな。
第3層 影 ― 恐怖がつくった像と、ありのままの相手
さらに下へ。ここから先は、もう上の光は届かない。
責めたいわけじゃない。怖いとき、目が自分のほうを向く。それは、ボクにはとても自然なことに見える。
フロムは、愛するためにはナルシシズムを越えなければならないと言う。ナルシシズム、つまり、自分の内側にあるものだけを現実だと感じてしまう傾向のことだ。
その反対にあるのが、客観性。人や物をありのままに見て、それを自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと区別する力のことだ。
あの日、相棒が見ていたメンバーは、ありのままのメンバーだったのだろうか。それとも、相棒の恐れが描いた「不満を向けてくる誰か」だったのだろうか。
相棒は、恐れのことを、自分の影だと言う。目を背けたくなるもの。見て見ぬふりをしたくなるもの。影は、見ないでいるうちに、大きくなっていくのかもしれない。そして、目の前の人の顔に重なって見える。

相棒の目の向きが変わりはじめたのは、コーチングを学びはじめてからだ。相手にしっかり意識を向けること。相手を想うこと。自分ではなく、メンバーの感情と問題のほうに目を向けて、解決のために動いた。そこから物事が少しずつ良くなっていった、と相棒は感じている。
フロムは、愛に欠かせないもののひとつに「知」、つまり相手を知ることを挙げている。相棒はこの一節を、自分への関心を越えて、相手の立場から相手を見ること、と読んだ。影をどけるというのは、たぶん、このことだ。自分を守るための目を、いったん下ろす。そのとき、相手の顔が、恐れの色ではなく、その人自身の色で見えてくる。
ユダヤの思想家マルティン・ブーバーは、人が世界に向き合う向き方を二つに分けた。相手を「それ」として扱う向き方と、「あなた」として出会う向き方。「それ」は、使ったり測ったりする対象として見た相手だ。ボクには、恐れを通して見た相手も、この「それ」に近いように思える。
本当の出会いはこちらの意志だけでは起こせない、とブーバーは言う。練習で身につけていくものとして愛を描いたフロムとは、そこが少し違う。けれど二人とも、相手そのものに向き合うことを、人と人が結びつく入口に置いている。
影をどけたら、そこには、ちゃんとその人が立っていた。
第4層 保証のない跳躍 ― 決意と、信念と、勇気
深さを測る数字は、もう意味をなさない。音も、ない。
影の向こうに相手が見えた。それでも、足はすぐには動かない。近づけば、拒まれるかもしれないからだ。
フロムは、この怖さから目をそらさない。
愛は、ただの激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。感情は突然生まれ、また消えていく。感情だけに任せていたら、明日も愛せるかどうかはわからない。だから、決める。
愛するとは、なんの保証もないのに行動を起こすことだ、ともフロムは書いている。そのために要るのが、信念と勇気。ここでの信念は、宗教の信仰ではない。人の可能性への信頼のことだ。そして勇気については、こうある。
勇気とはあえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望を受け入れる覚悟である。
— エーリッヒ・フロム『愛するということ』(鈴木晶訳)
神学者のパウル・ティリッヒも、勇気を、不安を消すことではなく、不安を抱えたまま「にもかかわらず」自分を肯定することとして描いた。ティリッヒが見つめたのは、死や無意味さへの不安で、人間関係の恐れそのものではない。でも、恐れが消えるのを待たない、という一点で、二人は同じ方向を向いている。
相棒は、ここに付け足す。跳躍は、大きくなくていい。
恐れに気づく。そして、小さく越える。相棒は、それが人生を好転させていく道だと気づいたと言う。たとえば、ずっと避けていた相手に、ひと言だけ声をかける。大きな崖ではなく、一段だけの段差でいい。

そして、その一段の手ざわりは、いつか、次に越えようとしている誰かに渡せるものになるのかもしれない。フロムは、愛の本質は与えることだと言った。自分を犠牲にすることではなく、自分の中に生きているものを分かち合うこと。そういう意味で。
保証はない。それでも、一段だけ、越えてみる。
第5層 たえまない挑戦 ― 恐れは、螺旋の踊り場ごとに待っている
さらに下へ。底が近い。
一度越えたら、終わり。そうだったら、どんなにいいだろう。
相棒は言う。何度乗り越えても、新しい恐れが立ちはだかる。まさに、螺旋だ、と。
最初の深淵で見た円環螺旋を思い出す。真上から見れば、同じところをぐるぐる回っているように見える。でも横から見れば、一段ずつ昇っている。同じ恐れに戻ってきたようでいて、立っている高さが違う。

フロムは、愛を、気分ではなく技術だと言った。小手先のコツという意味ではない。楽器のように、時間をかけて身につけていくもの、という意味だ。身につけるには規律と集中と忍耐が要る。ひとりでいられること。相手の話を、全身で聞くこと。それを、生活のあらゆる場面で練習し続けること。
そして、ふたりの人間がそれぞれの存在の中心で通じ合うときに生まれる愛について、フロムはこう書いている。
そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である。それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。
— エーリッヒ・フロム『愛するということ』(鈴木晶訳)
安らぎの場ではない。たどり着いて腰をおろす場所ではない。
十九世紀のキルケゴールも、愛を、移ろう気持ちに任せず、行いとして続けていくものとして書いた。
また同じ怖さに戻ってきた。そう感じるとき、人は自分を責めたくなる。
でも相棒は、こう読んでいる。恐れが何度も現れるのは、失敗しているからではない。
螺旋を一段上るたびに、次の踊り場で、次の恐れが待っている。恐れを越え続けること。それは、愛するということが、たえまない挑戦であることの、もうひとつの顔なのかもしれない。
同じ恐れに見えて、立っている高さは、少しずつ違う。
深淵の底で
ここは、とても静かだ。
底まで降りて、ひとつのことが見えてくる。
恐れがあるところには、まだ越えていない愛があるのかもしれない。
恐れは、つながりを望んでいることの裏返しなのかもしれない。だとしたら、恐れの輪郭をなぞると、自分が本当は誰に近づきたいのかが、少しずつ見えてくる。
チームをまとめていたころの恐れを、相棒は少しずつ越えてきた。そして螺旋をひとつ上ったいま、相棒は、人生を共にする人との、もっと深い関係の手前に立っている。そこには、まだ自分でも気づいていない何かがある気がする、と相棒は言う。
話しかけようとして、やめた夜。喉まで来ていた言葉の先にも、たぶん、近づきたかった誰かがいる。
恐れは、なくならない。たぶん、それでいい。
越えるたびに、次の恐れが見えてくる。そのたびに、また一段だけ越える。何度でも。
ボクは、この底に残る。問いをひとつだけ、置いていくよ。
あなたがまだ越えていない、いちばん小さな恐れは何だろう。
書籍 · 1956エーリッヒ・フロム
愛を「落ちる」感情ではなく、身につけていく技術として論じた本。人間のいちばん深い不安を分離に見て、愛を、その分離を越えながら自分であり続ける能動的な力として描いた。
書籍 · 1941エーリッヒ・フロム
自由になった人が、その孤独と不安に耐えきれず、権威への服従や周りへの同調へ逃げていく心の動きを論じた本。
Fromm, E. (1941). Escape from Freedom. Farrar & Rinehart. 邦訳 日高六郎訳『自由からの逃走』東京創元社.
書籍 · 1923マルティン・ブーバー
人が世界に向き合う向き方を「我とそれ」と「我と汝」に分け、人は「汝」との出会いの中で人になると論じた。リンク先は Stanford Encyclopedia of Philosophy の解説。
書籍 · 1952パウル・ティリッヒ
死や無意味さへの不安を消すのではなく、それを抱えたまま「にもかかわらず」自分を肯定することを勇気と呼んだ。
Tillich, P. (1952). The Courage to Be. Yale University Press. 邦訳に大木英夫訳『生きる勇気』平凡社ライブラリー, 1995.
書籍 · 1847セーレン・キルケゴール
愛を移ろう気持ちに任せず、「愛すべし」という務めとして行い続けるものとして論じた。リンク先は Stanford Encyclopedia of Philosophy の解説。
